いん‐ゆ【引喩】
引喩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 08:41 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動引喩(いんゆ、英: allusion)とは、有名な人、場所、出来事、文学作品、芸術作品などを直に述べるか、それらについて言及する修辞技法のこと。
概略
引喩代入の歴史は古く、ヘレニズム期のカリマコスの詩、古代ローマのウェルギリウスの『農耕詩』、アレキサンダー・ポープの『髪盗人』、近現代ではT・S・エリオットの『荒地』(The Waste Land)がとくに有名である。
引喩は比較的短い分量で、読者・聴衆があらかじめ持っていた、ある話題に関連する概念または感情を引き出すので、経済的な修辞技法といえる。ただし、それが理解できるのは、読者・聴衆に問題になっている隠された言及についての事前知識がある場合で、そうでない場合、つまり読者・聴衆が作者の意図を読み取ることができない場合には、ただの装飾的技法にしかならない。
たとえば、T・S・エリオットの詩が「引喩的」と言われるのは、そこに言及された人名、場所、イメージが事前知識のみで理解されるからである。一方、ジェイムズ・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』(1939年)も濃密な引喩的作品だが、理解しがたく、『A Skeleton Key to Finnegans Wake』(1944年)という謎解き本も出ている。
「引喩」という言葉は文学用語だが、映画や美術といった文学以外への間接的な言及までも含む。ただし映画批評の分野で、他の映画への言葉を伴わない意図的な視覚的言及は「引喩」でなくオマージュと呼ばれる。
現実の出来事が、昔起こった出来気をはっきりと思い出させる時には、それすらも引喩的な含みを持っているように感じられることもある。
引喩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 08:58 UTC 版)
「ファン・ホーム ある家族の悲喜劇」の記事における「引喩」の解説
本作において、文学作品からの引喩は単なる形式的な物でも、文体上の物でもない[訳語疑問点]。ベクダルはこう述べている。 私がこれらの引喩を用いたのは … 描写の手段とするためだけではない。両親が私にとってもっとも現実的に感じられたのが、小説の言葉で語るときだったのだ。そしておそらく、一つ一つの例えよりも、距離を置いて鑑賞するかのような私の醒めた態度こそが、私の家に漂っていた冷ややかさをよく伝えているだろう。 ベクダルは作中で父親との関係をダイダロスとイカロスの神話に重ね合わせる。子供のころのベクダルは、ゴシック・リバイバル風の家に住む一家を、チャールズ・アダムスの漫画に登場するアダムス・ファミリーになぞらえていた。ブルース・ベクダルの自殺はアルベール・カミュの小説『幸福な死』や随筆『シーシュポスの神話』を援用して論じられる。ブルースが入念に美的かつ知的な世界を構築したことはスコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』に例えられる。またベクダルは、父ブルースは伝記 The Far Side of Paradise に見られるフィッツジェラルドの人生を自分の人生の雛形にしたのではないかと示唆している。 ブルースの妻である母ヘレンはヘンリー・ジェイムズの小説『ワシントン・スクエア』や『ある婦人の肖像』の主人公に例えられる。ヘレン・ベクダルはアマチュア女優であった。本作はヘレンが演じた舞台を描くことで、彼女の結婚生活の様相を浮かび上がらせている。ヘレン・ベクダルが夫ブルースと出会ったのは『じゃじゃ馬ならし』の学生公演であり、作者アリソンはこれが「後の結婚生活を予兆するもの」だったと暗示している。地元の劇団が上演した『真面目が肝心』でヘレン・ベクダルが演じたブラックネル卿夫人役はやや詳しく描写され、ブルース・ベクダルはオスカー・ワイルドに例えられる。 ブルースの同性愛への論考ではマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』の引喩が用いられ、父娘が共有する芸術指向と強迫性傾向を描く場面ではE・H・シェパードが『たのしい川べ』に描いた挿絵が言及される。ブルースとアリソンは、それぞれの性的指向をそれとなく知らせ合うために同性愛者の回想録を使っている。ブルースがまず娘にコレットの自伝的な著作集 Earthly Paradise を貸す。その直後、アリソンは図書館で借りたケイト・ミレットの自叙伝 Flying を実家に置き忘れ、返却するよう父に頼む。これはアリソンの言葉によれば「無意識ながら雄弁な意思表示」であった。最終章に至って再びダイダロス神話が引かれ、アリソン・ベクダルは自身をジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』に登場するスティーブン・ディーダロスに、父親をレオポルド・ブルームに例え、それと並行して神話のテレマコスとオデュッセウスに言及する。 章タイトルもすべて文学からの引喩である。第一章 "Old Father, Old Artificer,"(古代の父よ、古代の芸術家よ)はジョイスの『若き芸術家の肖像』の一節から引かれており、第二章 "A Happy Death"(幸福な死)は同題のカミュの小説を元にしている。第三章 "That Old Catastrophe"(かの大いなる禍い)はウォーレス・スティーブンズの『日曜の朝』の一節から取られた。第四章 "In the Shadow of the Young Girls in Flower"(花咲く乙女たちのかげに)はプルーストの『失われた時を求めて』の一巻の題名を英語に直訳したものである。この題は一般には "Within a Budding Grove" と英訳される。 文章の中で明示的に行われる文学からの引喩のほかに、絵の中でもテレビ番組などのポップカルチャーからの引喩が行われている。コマの背景に描かれたテレビの画面に当時の番組が映っている場面は多い。引用された中には『素晴らしき哉、人生!』、『セサミストリート』のバートとアーニー、ヨギ・ベア(クマゴロー)、『怪鳥人間バットマン』、ロードランナーとワイリー・コヨーテ、リチャード・ニクソン大統領の辞任を伝えるニュース、『いたずら天使』がある。
※この「引喩」の解説は、「ファン・ホーム ある家族の悲喜劇」の解説の一部です。
「引喩」を含む「ファン・ホーム ある家族の悲喜劇」の記事については、「ファン・ホーム ある家族の悲喜劇」の概要を参照ください。
引喩
「引喩」の例文・使い方・用例・文例
- >> 「引喩」を含む用語の索引
- 引喩のページへのリンク