創作年代とテキストとは? わかりやすく解説

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創作年代とテキスト

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/29 09:04 UTC 版)

エドモントンの陽気な悪魔」の記事における「創作年代とテキスト」の解説

研究者たちはこの劇の創作年代早くて1592年しながらも、最も妥当と思われるのは1600年から1604年の間だろうとしている。『陽気な悪魔』についての最も古い記録1604年の『Black Booke』という同時代の劇の中の言及である。この劇が書籍出版業組合記録登録されたのは1607年10月22日のことで、翌1608年書籍商アーサ・ジョンソンによって最初の「四折版」(Q1)が出版された(印刷はヘンリー・バラード)。17世紀のうちにさらに5冊の四折版が出版されている(Q2 1612年Q3 1617年Q4 1626年Q5 1631年、Q6 1655年)。四折版はすべて作者不詳である。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/30 08:59 UTC 版)

リチャード二世 (シェイクスピア)」の記事における「創作年代とテキスト」の解説

リチャード二世』は1597年8月29日書籍商アンドリュー・ワイズ(Andrew Wise)によって書籍出版業組合記録登録された。最初の「四折版」(Q1)が出版されたのは翌1598年で、出版者ワイズ印刷はヴァレンタイン・シムズ(Valentine Simmes)である。1598年にはやはり四折版のQ2Q3が出るが、2年の間で3版を重ねたシェイクスピア劇は『リチャード二世』だけである。さらに1608年Q41615年Q5出て1623年出版の「ファースト・フォリオ最初二折版)」がそれに続く。 それらにはいくつかの違いがあり、四折版では些細なものだが、「ファースト・フォリオ」ではかなりの違いがある。まずQ1Q2Q3シェイクスピア原稿基づいたものと一般に見られている)には、リチャード二世廃位場面欠けている。Q4では、プロンプター用の台本から起こされた「ファースト・フォリオ」のものほど長くはないものの、廃位場面登場する僅かな証拠から推測するしかないが、廃位場面が四折版で削られているのは、劇場もしくは祝典局長Master of the Revels)エドマンド・ティルニー(Edmund Tylney)による検閲あったからだと考えられている。一方、「ファースト・フォリオ」はシェイクスピアオリジナル意図反映したものだとされる。しかし、それを裏付ける証拠はなく、Q4表紙には「最近上演された」廃位場面という言及がされている(これもまた検閲よるものかも知れない)。

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ジョン王 (シェイクスピア)」の記事における「創作年代とテキスト」の解説

ジョン王』は1598年には既に存在していた。同年のフランシス・ミアズ(Francis Meres)『Palladis Tamia』の中のシェイクスピア戯曲リストに『ジョン王』が含まれいるからである。しかし、当時上演されたという記録残っていない。『ジョン王』が最初に印刷されたのは1623年の「ファースト・フォリオ」である。オックスフォード版の編者スタンリー・ウェルズとゲイリー・テイラーは『ジョン王』の創作年代1595年1596年としている。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/12 14:23 UTC 版)

ヴェローナの二紳士」の記事における「創作年代とテキスト」の解説

ヴェローナの二紳士』の創作年代わかっていないが、シェイクスピア作品中でも最古作品1つ考えられている。1598年のフランシス・ミアズ(Francis Meres)の『知恵宝庫(Palladis Tamia)』にあるシェイクスピア戯曲リストがその証拠だが、書かれたのは1590年代早い時期考えられている。シェイクスピア最初の戯曲という指摘もあり、4人以上の登場人物が出る場面がないのは「経験のなさをうかがわせる不確実な技術示している」。また、誠実な男が友情の証として自分恋人を、本人同意得ず、彼女を強姦しようとした友人譲ろうとするシーン取り上げてシェイクスピア劇作家として円熟味欠如表れとする意見もある。この劇は1623年の「ファースト・フォリオ」まで印刷されことはなかった。

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ヘンリー五世 (シェイクスピア)」の記事における「創作年代とテキスト」の解説

第5幕冒頭コロス説明役)の口上に、ティローン伯の乱鎮圧失敗した第2代エセックス伯ロバート・デヴァルーへの言及があることから、『ヘンリー五世』が書かれたのは1599年初め頃と考えられている。1600年8月14日書籍商Thomas Pavierによって『The Chronicle History of Henry the fifth』として書籍出版業組合記録登録された。最初の四折版(Q1)はその年の暮れ前に、PavierというよりThomas MillingtonおよびJohn Busbyによって出版された(印刷Thomas Creede)。 Q1短縮版で「悪い四折版(Bad quarto)」と呼ばれている。海賊版書き留めたテキストであることは間違いない第二の四折版(Q2)は1602年にPavierにより出版された。さらに1619年にはQ3が、ウィリアム・ジャガード(William Jaggard)の「フォールス・フォリオ」に収められ1608年誤った日付付けられていた。もっとも優れたテキスト1623年の「ファースト・フォリオ」のものである

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ウィンザーの陽気な女房たち」の記事における「創作年代とテキスト」の解説

作品作られた時期わかっておらず、出版の登録がされた1602年より数年前だったと思われる劇中でミストレス・クィックリーによるガーター勲章への言及があり、さらに1592年イングランド訪れ1597年ガーター勲章受けたドイツの公爵ヴュルテンベルク公フリードリヒ1世についての言及がある。このため1790年エドモンド・マローンはこの芝居ガーター騎士団叙任式のために書かれ上演されたのではないか考えたウィリアム・グリーンは、シェイクスピア一座パトロンであった宮内大臣ジョージ・ケアリー1597年4月ガーター勲章授かった時のために書かれたと考えている。もしそうなら、おそらくこの劇は4月23日祝宴エリザベス1世出席した際に上演されたのであろう。しかし、それは初演でなかったかも知れない一般劇場上演されたことも考えられる本作ガーター勲章式典のために書かれ芝居であるという説は推測しかないが、1702年にジョン・デニス(John Dennis)が『ウィンザーの陽気な女房たち』を脚色した劇(後述)の序文書いた記述もそれを裏付けている。さらに最初現代版シェイクスピア全集編集したニコラス・ロウNicholas Rowe)によると、『ヘンリー四世二部作見て恋するフォルスタッフ」を見たい願ったエリザベス1世依頼シェイクスピアがこの劇を書いたことになっている。しかし、これは100年後の記述なので疑わしくもある。登場人物の設定における矛盾や、結末いい加減なところは、エリザベス1世シェイクスピアに劇を書かせたという説を裏付けるものだが、『ヘンリー五世以降書かれたことを意味しているようにも見える。たとえば、登場人物ページファーストネームは、ある箇所では「トーマス」ある箇所では「ジョージ」と呼ばれている。同様に第5幕でアン・ペイジが着る妖精衣裳にも「白衣」と「緑衣」がある。韻文台詞シェイクスピアにしては出来良くないT・W・クレイクは、エリザベス女王に関する逸話クォート版のタイトルページ御前上演記述があることから生まれた単なるファンタジーであると考えている。しかし、ケアリー女王望み役者たち伝えることができる立場ではあったので、このせいでこうした伝説生まれたのかもしれないガーター勲章式典節をどう解釈するかは意見分かれている。もしこの説が正しいなら、シェイクスピアは『ヘンリー四世 第1部』と『ヘンリー四世 第2部』の間に『ウィンザーの陽気な女房たち』を書いたことになる。批評家たちにとってそれが信じ難いのは、『ヘンリー四世』と『ウィンザーの陽気な女房たち』の間にあるいろいろな矛盾のせいである。例えば、ピストルシャローは『ヘンリー四世 第2部』で初め出てくるキャラクターだが、『ウィンザーの陽気な女房たち』ではフォルスタッフとこうした人々つながりは当然のものとして描かれている。さらに、反乱(『ヘンリー四世 第1部』)、あるいはフランスイングランド侵入(『ヘンリー四世 第2部』)のような15世紀フォルスタッフかかわり史劇でも言及あるよう大事件気配一切ない。T・W・クレイクは、『ウィンザーの陽気な女房たち』を非常に早く仕上げる必要があったため、シェイクスピアは『ヘンリー四世 第2部』をほぼ書いたところで中断してそちらに移ったのだと示唆している。もうひとつありうる説明としては、『ヘンリー四世 第2部』のエピローグフォルスタッフ再登場約束されているにもかかわらず、『ヘンリー五世』にはサー・ジョン登場しないため、『ウィンザーの陽気な女房たち』はこの約束守って埋め合わせするために書かれたというものである少なくともこの芝居一部1597年の『ヘンリー四世 第1部初演前後書かれた。フォルスタッフ当初歴史上の人物であるサー・ジョン・オールドカースルの名をもらうはずであったが、おそらくこれがオールドカースルの子孫の気分害したため議論巻き起こりシェイクスピアキャラクターの名前変更した第五幕第五場85-90行目や、第四幕第五場6行目あたりに、おそらく「オールドカースル」という名前を想定して書かれたと思われる形跡があるからである。 1602年1月18日は『ウィンザーの陽気な女房たち』が書籍出版業組合記録登録され日付で、その後書籍商アーサー・ジョンソンによって粗悪なテキスト最初の四折版(Q1)が出版された。第二の四折版(Q2)は1619年にウィリアム・ジャガードによって「フォールス・フォリオ」に収められた。より良いテクストであるファースト・フォリオ出版されたのは1623年のことである。 Q1表紙には、この劇が「女王陛下御前で、それ以外の場所で」宮内大臣一座Lord Chamberlain's Men)によって演じられと書かれてある。はっきりわかっているうちで最も早い公演1604年11月4日ホワイトホール宮殿である。他にも、1638年11月15日コックピット座(Cockpit Theatre)で上演された。

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トロイラスとクレシダ」の記事における「創作年代とテキスト」の解説

トロイラスとクレシダ』は『ハムレット』完成させた直後1602年頃に書かれたものだと信じられている。「四折版」は1609年2種類出版された。その当時上演されたかはわからないというのも2つ矛盾しているからで、一方最近舞台で上演したばかりとあるのに、もう一方はまだ舞台にかけていない新作序文謳っているからである。書籍出版業組合記録登録されたのは1603年2月7日で、登録した書籍商印刷屋のジェームズ・ロバーツは、シェイクスピア劇団である宮内大臣一座によって上演された劇と言及している。しかし、出版はされなかった。1609年1月28日文房具商(本屋兼)のリチャード・ボニアンとヘンリー・ウォリーが再登録して、その年のうちに最初の四折版が出版されたが、1つではなく2つあった。最初のもの(QA)には「グローブ座においてKing's Majesty's servants(国王一座)によって演じられると書かれ、もう一つのもの(QB)ではグローブ座への言及省略され、『トロイラスとクレシダ』は「まだ劇場にはかかっていない新作」という長い書簡序文につけられていた。 注釈者の中には(たとえば19世紀デンマーク人シェイクスピア研究家のゲーオア・ブランデス)は、『トロイラスとクレシダ』は1600年から1602年頃に作られたが、1609年印刷直前大きな改訂なされたとして、矛盾解決しようとした。『トロイラスとクレシダ』はその痛烈な性格注目値し1605年から1608年の間にシェイクスピア書いた戯曲(『リア王』『コリオレイナス』『アテネのタイモン』)と似ている。もしこの劇が改訂されているとしたら、元々のものは1600年頃にシェイクスピア書いたお気に召すまま』『十二夜のような明るロマンティック・コメディで、暗い素材はは後の改訂加えられたもので、その結果トーン目的混濁してしまったのかも知れない

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/28 08:20 UTC 版)

ヘンリー四世 第1部」の記事における「創作年代とテキスト」の解説

多く引喩フォルスタッフというキャラクターへの言及後述)から『ヘンリー四世 第1部』が1597年までに上演されたのはほぼ間違いないが、記録残っているもので最古の上演は、1600年3月6日午後宮廷で、フランドル大使前に行われたのである宮廷では1612年1625年にも上演されている。書籍出版業組合記録登録されたのは1598年2月25日で、最初印刷書籍商アンドリュー・ワイズ(Andrew Wise)による「四折版」だった。『ヘンリー四世 第1部』はシェイクスピア劇の中でも変人気があり、上演同様に「四折版」の出版1599年1604年1608年1613年1622年1632年1639年続いた1623年には「ファースト・フォリオ」も出版された。

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シンベリン」の記事における「創作年代とテキスト」の解説

シンベリン』の創作年代不明である。イエール版では、共作者の存在示唆しいくつかのシーン第3幕第7場第5幕第2場)は他の作品較べるシェイクスピアのものに見えない印象があるとしている。『シンベリン』はフランシス・ボーモント(Francis Beaumont)&ジョン・フレッチャーJohn Fletcher共作悲喜劇『フィラスター(Philaster)』(1609年 - 1610年頃)と関連性があって、そこから創作年代1609年頃とする研究者もいるが、どちらの劇が先に出来たのかはわかっていない。1611年春にサイモン・フォアマンがこの劇を見たという記録残っている。最初印刷1623年の「ファースト・フォリオ」である。 『シンベリン』の入り組んだプロットパロディネタ存在する証拠だとする意見もある。具体的に第5幕第4場の、ジュピター雷鳴と稲妻の中、またがったまま天降ってきて、雷電投げるくだりが挙げられる。 『シンベリン』は一時高い評価受けたものの、次第人気失っていった。取るに足らないだらだらした不合理な話であることから、シェイクスピア手慰みにこれを書いたではないかと言う説もある。しかし、ウィリアム・ハズリットジョン・キーツは『シンベリン』を好きな芝居一つ挙げている。 オックスフォードならびにノートン版の編者は「イモージェンImogen)」の名前は「イノージェン(Innogen)」の綴り間違いだと主張している。『空騒ぎ』に、レオナート(Leonato)の妻と思われるイノージェンなるゴースト・キャラクター(Ghost character。劇の中で名前は出てくるが、実際に登場しない人物のこと)がいて、『シンベリン』のイモージェンはポステュマス・リーオネータス(Leonatus)の妻だからというのがその根拠である。スタンリー・ウェルズ(Stanley Wells)とマイケル・ドブソンは、シェイクスピア材源として使っていたラファエル・ホリンシェッドの『年代記(Chronicles)』にイノージェン言及があり、1611年にこの劇を見たフォアマン記録にも「イノージェンと書かれてあることを指摘している。しかし編者多くイモージェンという表記使い続けている。

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トマス・ロード・クロムウェル」の記事における「創作年代とテキスト」の解説

トマス・ロード・クロムウェル』が書籍出版業組合記録登録されたのは1602年8月11日で、同年のうちに書籍商ウィリアム・コットンにより最初の「四折版」(Q1)が出版された。Q1表紙にはこの劇が宮内大臣一座によって上演され作者は「W.S」と記されている。第二の四折版(Q2)はThomas Snodhamによって1613年出版された。Q2表紙Q1繰り返しだが、宮内大臣一座はこの時(1603年から)国王一座変わっていた。

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ヘンリー四世 第2部」の記事における「創作年代とテキスト」の解説

1596年から1599年の間のいつかに書かれたと信じられている。書籍商アンドリュー・ワイズ(Andrew Wise)とウィリアム・アスプレイ(William Aspley)によって1600年書籍出版業組合記録され同年「四折版」が出版された(印刷はヴァレンタイン・シムズ Valentine Simmes)。『ヘンリー四世 第1部』より人気がなく、四折版での出版はこれのみである。次に出版されたのは1623年の「ファースト・フォリオ」である。 出版前に「たびたび公演された」劇であることが四折版の表紙書かれている記録を見ると、1612年王宮で『ヘンリー四世2部作が上演されたとあるが、題名が『サー・ジョン・フォルスタッフ(Sir John Falstaff)』と『ホットスパーHotspur)』となっている。『フォルスタッフ 第2部Second part of Falstaff)』と書かれてある記録1619年王宮の上演を指しているようである。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/30 09:01 UTC 版)

ヘンリー六世 第2部」の記事における「創作年代とテキスト」の解説

ヘンリー六世 第2部』は1590年から1591年頃に書かれたものと思われる。フィリップ・ヘンスロー(Philip Henslowe)の日記には1592年3月3日ストレンジ一座英語版)によって『ヘンリー六世』が上演されたと記されている。また、他の文献には、シェイクスピアの『ヘンリー六世三部作の他の2作も1592年上演されと書かれている。トマス・ナッシュの『Pierce Penniless』(同年8月登録)には、タルボット卿を扱った人気劇について言及していて、これは(他に該当する劇がないので)『ヘンリー六世 第1部』のことだろう。ロバート・グリーンの『A Groatsworth of Wit』(同年9月登録)というパンフレットには、『ヘンリー六世 第3部』の1行がパロディにされている。『第1部』と『第3部』が1592年上演されていることから、直接証拠はないものの、『第2部』もその年に上演されたものと推測される1594年出版された『ヘンリー六世 第2部』は書籍商Thomas Millingtonが同年3月12日出版業組合Worshipful Company of Stationers and Newspaper Makers)に登録し、その年のうちに印刷したのである。このテキストQ1)は普通『ヨークランカスター両名家の争い 第1部The First Part of the Contention Betwixt the Two Famous Houses of York and Lancaster)』という題名知られているが、それは短縮した題名で、正式には『The First Part of the Contention Betwixt the Two Famous Houses of York and Lancaster, With the Death of the Good Duke Humphrey: and the Banishment and Death of the Duke of Suffolk, and the Tragical End of the Proud Cardinal of Winchester, With the Notable Rebellion of Jack Cade: and the Duke of York's First Claim Unto the Crown』である。 この版は2度再版されている(「Q21600年、「Q31619年)。Q3はウィリアム・ジャガード(William Jaggard)の「フォールス・フォリオ」に収められたものである19世紀には、『ヨークランカスター両名家の争い 第1部』はシェイクスピア以外の作者もしく作者たちの作で、シェイクスピアはそれを元にヘンリー六世 第2部』を書いた考えられていた。しかし、現代批評家たちの意見は、『ヨークランカスター両名家の争い 第1部』は、おそらく『ヘンリー六世 第2部』でサフォーク公およびケイド役の役者が、オリジナル書き留めたか、記憶頼り再現した「悪い四折版(Bad quarto)」であろう見ている。

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ミュセドーラス」の記事における「創作年代とテキスト」の解説

ミュセドーラス』は当時たびたび再版され17世紀末までに17もの「四折版」が出た。(通常のものとの比較は「シェイクスピアの初期のテキスト」を参照のこと) Q1-1598年、Q2-1606年、Q3-1610年、Q4-1611年、Q5-1613年、Q6-1615年、Q7-1618年、Q8-1619年、Q9-1621年、Q10-1626年、Q11-1631年、Q12-1634年、Q13-1639年、Q14-1663年、Q15-1668年。Q16とQ17については日付がついていない。最初6つ書籍商ウィリアム・ジョーンズ出版した現代の研究家はこの劇の創作年代1590年頃と推測している。

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ヘンリー六世 第3部」の記事における「創作年代とテキスト」の解説

シェイクスピア初期の作品一つで、(三部作の他の2作とともに1590年頃に書かれた。1595年に『ヨーク公リチャード実話悲劇、そして良王ヘンリー六世の死(The true Tragedie of Richard Duke of Yorke, and the death of good King Henrie the Sixt)』として出版された。この時のテキスト1600年1619年再版されたが(1619年版はウィリアム・ジャガード(William Jaggard)の「フォールス・フォリオ」に収められたもの)、「ファースト・フォリオ」(1623年)との関連性研究者たちの間で諸説ある。19世紀には、『ヨーク公リチャード実話悲劇』はシェイクスピアが『ヘンリー六世 第3部』の元にした作者不明の劇と見る傾向があり、何人かの研究者たちはその作者に、トマス・ロッジ(Thomas Lodge)やジョージ・ピール(George Peele)のような有名劇作家の名前を挙げさえもした。1929年にピーター・アレグザンダーが、このテキストオリジナル書き留めたか、記憶頼り再現した「悪い四折版(Bad quarto)」であると主張して、それが現代批評家たちの意見となっている。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/30 09:08 UTC 版)

ヘンリー六世 第1部」の記事における「創作年代とテキスト」の解説

ヘンリー六世 第1部』はシェイクスピア戯曲でも初期のものである。一般的に1588年から1590年にかけてとされているが、その創作時期には諸説があり、学者意見は、『ヘンリー六世三部作のうち最初に書かれたという説と、反対に最後に前編Prequel)」として書かれたという説に分かれている。 劇作家ロバート・グリーンRobert Greene)は、『ヘンリー六世 第3部』は1592年書かれたと言及している 研究者中には文体引き合い出し、『第1部』はシェイクスピア単独書いたではなく3人以上劇作家チーム合作されたと主張して、その中には、トマス・ナッシュ(Thomas Nashe)、ロバート・グリーンクリストファー・マーロウがいたという。しかし、この説は18世紀・19世紀ジャンヌ・ダルク扱い嫌った結果であるという意見もある。

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創作年代とテキスト

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/30 09:03 UTC 版)

フェア・エム」の記事における「創作年代とテキスト」の解説

フェア・エム』は1642年劇場閉鎖前に2度「四折版」で出版されている。 Q1最初の四折版):日付作者名もなし。印刷は「T.N.とI.W.」。表紙に「これは誉れ高きシティ・オブ・ロンドンにて、真に誉れ高き変人卿のしもべたち(Lord Strange's Menのこと)によって、幾度か大衆の前で演じられものなりと書かれている劇団活動時期から、劇の創作年代1589年から1593年推定されるQ2第二の四折版):1631年出版印刷ジョン・ライト作者名はない。両方の版のフル・タイトルは『A Pleasant Comedie of Faire Em, the Millers Daughter of Manchester. WIth the love of William the Conquerorマンチェスター粉屋の娘、美しい(正直なエム愉快な喜劇ウィリアム1世の恋)』。

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