創作年代とテキスト
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「エドモントンの陽気な悪魔」の記事における「創作年代とテキスト」の解説
研究者たちはこの劇の創作年代を早くて1592年としながらも、最も妥当と思われるのは1600年から1604年の間だろうとしている。『陽気な悪魔』についての最も古い記録は1604年の『Black Booke』という同時代の劇の中の言及である。この劇が書籍出版業組合の記録に登録されたのは1607年10月22日のことで、翌1608年に書籍商アーサ・ジョンソンによって最初の「四折版」(Q1)が出版された(印刷はヘンリー・バラード)。17世紀のうちにさらに5冊の四折版が出版されている(Q2 1612年、Q3 1617年、Q4 1626年、Q5 1631年、Q6 1655年)。四折版はすべて作者不詳である。
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「リチャード二世 (シェイクスピア)」の記事における「創作年代とテキスト」の解説
『リチャード二世』は1597年8月29日、書籍商アンドリュー・ワイズ(Andrew Wise)によって書籍出版業組合の記録に登録された。最初の「四折版」(Q1)が出版されたのは翌1598年で、出版者はワイズ、印刷はヴァレンタイン・シムズ(Valentine Simmes)である。1598年にはやはり四折版のQ2、Q3が出るが、2年の間で3版を重ねたシェイクスピア劇は『リチャード二世』だけである。さらに1608年にQ4、1615年にQ5が出て、1623年出版の「ファースト・フォリオ(最初の二折版)」がそれに続く。 それらにはいくつかの違いがあり、四折版では些細なものだが、「ファースト・フォリオ」ではかなりの違いがある。まずQ1、Q2、Q3(シェイクスピアの原稿に基づいたものと一般に見られている)には、リチャード二世の廃位の場面が欠けている。Q4では、プロンプター用の台本から起こされた「ファースト・フォリオ」のものほど長くはないものの、廃位の場面が登場する。僅かな証拠から推測するしかないが、廃位の場面が四折版で削られているのは、劇場もしくは祝典局長(Master of the Revels)エドマンド・ティルニー(Edmund Tylney)による検閲があったからだと考えられている。一方、「ファースト・フォリオ」はシェイクスピアのオリジナルの意図を反映したものだとされる。しかし、それを裏付ける証拠はなく、Q4の表紙には「最近上演された」廃位の場面という言及がされている(これもまた検閲によるものかも知れない)。
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「ジョン王 (シェイクスピア)」の記事における「創作年代とテキスト」の解説
『ジョン王』は1598年には既に存在していた。同年のフランシス・ミアズ(Francis Meres)『Palladis Tamia』の中のシェイクスピア戯曲のリストに『ジョン王』が含まれているからである。しかし、当時上演されたという記録は残っていない。『ジョン王』が最初に印刷されたのは1623年の「ファースト・フォリオ」である。オックスフォード版の編者スタンリー・ウェルズとゲイリー・テイラーは『ジョン王』の創作年代を1595年か1596年としている。
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「ヴェローナの二紳士」の記事における「創作年代とテキスト」の解説
『ヴェローナの二紳士』の創作年代はわかっていないが、シェイクスピア作品の中でも最古の作品の1つと考えられている。1598年のフランシス・ミアズ(Francis Meres)の『知恵の宝庫(Palladis Tamia)』にあるシェイクスピア戯曲のリストがその証拠だが、書かれたのは1590年代の早い時期と考えられている。シェイクスピアの最初の戯曲という指摘もあり、4人以上の登場人物が出る場面がないのは「経験のなさをうかがわせる不確実な技術を示している」。また、誠実な男が友情の証として自分の恋人を、本人の同意も得ず、彼女を強姦しようとした友人に譲ろうとするシーンを取り上げて、シェイクスピアの劇作家としての円熟味の欠如の表れとする意見もある。この劇は1623年の「ファースト・フォリオ」まで印刷されたことはなかった。
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「ヘンリー五世 (シェイクスピア)」の記事における「創作年代とテキスト」の解説
第5幕冒頭のコロス(説明役)の口上に、ティローン伯の乱鎮圧に失敗した第2代エセックス伯ロバート・デヴァルーへの言及があることから、『ヘンリー五世』が書かれたのは1599年の初め頃と考えられている。1600年8月14日、書籍商Thomas Pavierによって『The Chronicle History of Henry the fifth』として書籍出版業組合の記録に登録された。最初の四折版(Q1)はその年の暮れ前に、PavierというよりThomas MillingtonおよびJohn Busbyによって出版された(印刷はThomas Creede)。 Q1は短縮版で「悪い四折版(Bad quarto)」と呼ばれている。海賊版か書き留めたテキストであることは間違いない。第二の四折版(Q2)は1602年にPavierにより出版された。さらに1619年にはQ3が、ウィリアム・ジャガード(William Jaggard)の「フォールス・フォリオ」に収められ、1608年の誤った日付で付けられていた。もっとも優れたテキストは1623年の「ファースト・フォリオ」のものである。
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「ウィンザーの陽気な女房たち」の記事における「創作年代とテキスト」の解説
作品が作られた時期はわかっておらず、出版の登録がされた1602年より数年前だったと思われる。劇中でミストレス・クィックリーによるガーター勲章への言及があり、さらに1592年イングランドを訪れ、1597年にガーター勲章を受けたドイツの公爵ヴュルテンベルク公フリードリヒ1世についての言及がある。このため、1790年にエドモンド・マローンはこの芝居はガーター騎士団の叙任式のために書かれ、上演されたのではないかと考えた。ウィリアム・グリーンは、シェイクスピアの一座のパトロンであった宮内大臣ジョージ・ケアリーが1597年4月にガーター勲章を授かった時のために書かれたと考えている。もしそうなら、おそらくこの劇は4月23日の祝宴にエリザベス1世が出席した際に上演されたのであろう。しかし、それは初演でなかったかも知れない。一般の劇場で上演されたことも考えられる。 本作がガーター勲章の式典のために書かれた芝居であるという説は推測でしかないが、1702年にジョン・デニス(John Dennis)が『ウィンザーの陽気な女房たち』を脚色した劇(後述)の序文に書いた記述もそれを裏付けている。さらに最初の現代版シェイクスピア全集を編集したニコラス・ロウ(Nicholas Rowe)によると、『ヘンリー四世』二部作を見て「恋するフォルスタッフ」を見たいと願ったエリザベス1世の依頼でシェイクスピアがこの劇を書いたことになっている。しかし、これは100年後の記述なので疑わしくもある。登場人物の設定における矛盾や、結末のいい加減なところは、エリザベス1世がシェイクスピアに劇を書かせたという説を裏付けるものだが、『ヘンリー五世』以降に書かれたことを意味しているようにも見える。たとえば、登場人物ページのファーストネームは、ある箇所では「トーマス」ある箇所では「ジョージ」と呼ばれている。同様に第5幕でアン・ペイジが着る妖精の衣裳にも「白衣」と「緑衣」がある。韻文の台詞もシェイクスピアにしては出来が良くない。T・W・クレイクは、エリザベス女王に関する逸話はクォート版のタイトルページに御前上演の記述があることから生まれた単なるファンタジーであると考えている。しかし、ケアリーは女王の望みを役者たちに伝えることができる立場ではあったので、このせいでこうした伝説が生まれたのかもしれない。 ガーター勲章の式典節をどう解釈するかは意見が分かれている。もしこの説が正しいなら、シェイクスピアは『ヘンリー四世 第1部』と『ヘンリー四世 第2部』の間に『ウィンザーの陽気な女房たち』を書いたことになる。批評家たちにとってそれが信じ難いのは、『ヘンリー四世』と『ウィンザーの陽気な女房たち』の間にあるいろいろな矛盾のせいである。例えば、ピストルとシャローは『ヘンリー四世 第2部』で初めて出てくるキャラクターだが、『ウィンザーの陽気な女房たち』ではフォルスタッフとこうした人々のつながりは当然のものとして描かれている。さらに、反乱(『ヘンリー四世 第1部』)、あるいはフランスのイングランド侵入(『ヘンリー四世 第2部』)のような、15世紀にフォルスタッフがかかわり、史劇でも言及があるような大事件の気配が一切ない。T・W・クレイクは、『ウィンザーの陽気な女房たち』を非常に早く仕上げる必要があったため、シェイクスピアは『ヘンリー四世 第2部』をほぼ書いたところで中断してそちらに移ったのだと示唆している。もうひとつのありうる説明としては、『ヘンリー四世 第2部』のエピローグでフォルスタッフの再登場が約束されているにもかかわらず、『ヘンリー五世』にはサー・ジョンが登場しないため、『ウィンザーの陽気な女房たち』はこの約束を守って埋め合わせするために書かれたというものである。 少なくともこの芝居の一部は1597年の『ヘンリー四世 第1部』初演の前後に書かれた。フォルスタッフは当初、歴史上の人物であるサー・ジョン・オールドカースルの名をもらうはずであったが、おそらくこれがオールドカースルの子孫の気分を害したため議論が巻き起こり、シェイクスピアはキャラクターの名前を変更した。第五幕第五場85-90行目や、第四幕第五場6行目あたりに、おそらく「オールドカースル」という名前を想定して書かれたと思われる形跡があるからである。 1602年1月18日は『ウィンザーの陽気な女房たち』が書籍出版業組合の記録に登録された日付で、その後、書籍商アーサー・ジョンソンによって粗悪なテキストの最初の四折版(Q1)が出版された。第二の四折版(Q2)は1619年にウィリアム・ジャガードによって「フォールス・フォリオ」に収められた。より良いテクストであるファースト・フォリオが出版されたのは1623年のことである。 Q1の表紙には、この劇が「女王陛下の御前で、それ以外の場所で」宮内大臣一座(Lord Chamberlain's Men)によって演じられたと書かれてある。はっきりわかっているうちで最も早い公演は1604年11月4日のホワイトホール宮殿である。他にも、1638年11月15日にコックピット座(Cockpit Theatre)で上演された。
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「トロイラスとクレシダ」の記事における「創作年代とテキスト」の解説
『トロイラスとクレシダ』は『ハムレット』を完成させた直後の1602年頃に書かれたものだと信じられている。「四折版」は1609年に2種類出版された。その当時上演されたかはわからない。というのも2つが矛盾しているからで、一方は最近舞台で上演したばかりとあるのに、もう一方はまだ舞台にかけていないで新作と序文で謳っているからである。書籍出版業組合の記録に登録されたのは1603年2月7日で、登録した書籍商兼印刷屋のジェームズ・ロバーツは、シェイクスピアの劇団である宮内大臣一座によって上演された劇と言及している。しかし、出版はされなかった。1609年1月28日に文房具商(本屋兼)のリチャード・ボニアンとヘンリー・ウォリーが再登録して、その年のうちに最初の四折版が出版されたが、1つではなく2つあった。最初のもの(QA)には「グローブ座においてKing's Majesty's servants(国王一座)によって演じられる」と書かれ、もう一つのもの(QB)ではグローブ座への言及が省略され、『トロイラスとクレシダ』は「まだ劇場にはかかっていない新作」という長い書簡が序文につけられていた。 注釈者の中には(たとえば19世紀のデンマーク人シェイクスピア研究家のゲーオア・ブランデス)は、『トロイラスとクレシダ』は1600年から1602年頃に作られたが、1609年の印刷の直前に大きな改訂がなされたとして、矛盾を解決しようとした。『トロイラスとクレシダ』はその痛烈な性格が注目に値し、1605年から1608年の間にシェイクスピアが書いた戯曲(『リア王』『コリオレイナス』『アテネのタイモン』)と似ている。もしこの劇が改訂されているとしたら、元々のものは1600年頃にシェイクスピアが書いた『お気に召すまま』『十二夜』のような明るいロマンティック・コメディで、暗い素材はは後の改訂で加えられたもので、その結果、トーンと目的が混濁してしまったのかも知れない。
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「ヘンリー四世 第1部」の記事における「創作年代とテキスト」の解説
多くの引喩とフォルスタッフというキャラクターへの言及(後述)から『ヘンリー四世 第1部』が1597年までに上演されたのはほぼ間違いないが、記録に残っているもので最古の上演は、1600年3月6日の午後、宮廷で、フランドル大使を前に行われたものである。宮廷では1612年、1625年にも上演されている。書籍出版業組合の記録に登録されたのは1598年2月25日で、最初の印刷は書籍商アンドリュー・ワイズ(Andrew Wise)による「四折版」だった。『ヘンリー四世 第1部』はシェイクスピア劇の中でも大変人気があり、上演同様に「四折版」の出版も1599年、1604年、1608年、1613年、1622年、1632年、1639年と続いた。1623年には「ファースト・フォリオ」も出版された。
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創作年代とテキスト
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『シンベリン』の創作年代は不明である。イエール版では、共作者の存在を示唆し、いくつかのシーン(第3幕第7場、第5幕第2場)は他の作品と較べるとシェイクスピアのものに見えない印象があるとしている。『シンベリン』はフランシス・ボーモント(Francis Beaumont)&ジョン・フレッチャー(John Fletcher)共作の悲喜劇『フィラスター(Philaster)』(1609年 - 1610年頃)と関連性があって、そこから創作年代を1609年頃とする研究者もいるが、どちらの劇が先に出来たのかはわかっていない。1611年の春にサイモン・フォアマンがこの劇を見たという記録は残っている。最初の印刷は1623年の「ファースト・フォリオ」である。 『シンベリン』の入り組んだプロットはパロディのネタが存在する証拠だとする意見もある。具体的に、第5幕第4場の、ジュピターが雷鳴と稲妻の中、鷲にまたがったまま天降ってきて、雷電を投げるくだりが挙げられる。 『シンベリン』は一時は高い評価を受けたものの、次第に人気を失っていった。取るに足らないだらだらした不合理な話であることから、シェイクスピアは手慰みにこれを書いたのではないかと言う説もある。しかし、ウィリアム・ハズリットとジョン・キーツは『シンベリン』を好きな芝居の一つに挙げている。 オックスフォード版ならびにノートン版の編者は「イモージェン(Imogen)」の名前は「イノージェン(Innogen)」の綴り間違いだと主張している。『空騒ぎ』に、レオナート(Leonato)の妻と思われるイノージェンなるゴースト・キャラクター(Ghost character。劇の中で名前は出てくるが、実際には登場しない人物のこと)がいて、『シンベリン』のイモージェンはポステュマス・リーオネータス(Leonatus)の妻だからというのがその根拠である。スタンリー・ウェルズ(Stanley Wells)とマイケル・ドブソンは、シェイクスピアが材源として使っていたラファエル・ホリンシェッドの『年代記(Chronicles)』にイノージェンの言及があり、1611年にこの劇を見たフォアマンの記録にも「イノージェン」と書かれてあることを指摘している。しかし編者の多くはイモージェンという表記を使い続けている。
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「トマス・ロード・クロムウェル」の記事における「創作年代とテキスト」の解説
『トマス・ロード・クロムウェル』が書籍出版業組合の記録に登録されたのは1602年8月11日で、同年のうちに書籍商ウィリアム・コットンにより最初の「四折版」(Q1)が出版された。Q1の表紙にはこの劇が宮内大臣一座によって上演され、作者は「W.S」と記されている。第二の四折版(Q2)はThomas Snodhamによって1613年に出版された。Q2の表紙はQ1の繰り返しだが、宮内大臣一座はこの時(1603年から)国王一座に変わっていた。
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「ヘンリー四世 第2部」の記事における「創作年代とテキスト」の解説
1596年から1599年の間のいつかに書かれたと信じられている。書籍商アンドリュー・ワイズ(Andrew Wise)とウィリアム・アスプレイ(William Aspley)によって1600年に書籍出版業組合に記録され、同年「四折版」が出版された(印刷はヴァレンタイン・シムズ Valentine Simmes)。『ヘンリー四世 第1部』より人気がなく、四折版での出版はこれのみである。次に出版されたのは1623年の「ファースト・フォリオ」である。 出版前に「たびたび公演された」劇であることが四折版の表紙に書かれている。記録を見ると、1612年に王宮で『ヘンリー四世』2部作が上演されたとあるが、題名が『サー・ジョン・フォルスタッフ(Sir John Falstaff)』と『ホットスパー(Hotspur)』となっている。『フォルスタッフ 第2部(Second part of Falstaff)』と書かれてある記録は1619年の王宮での上演を指しているようである。
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「ヘンリー六世 第2部」の記事における「創作年代とテキスト」の解説
『ヘンリー六世 第2部』は1590年から1591年頃に書かれたものと思われる。フィリップ・ヘンスロー(Philip Henslowe)の日記には1592年3月3日、ストレンジ卿一座(英語版)によって『ヘンリー六世』が上演されたと記されている。また、他の文献には、シェイクスピアの『ヘンリー六世』三部作の他の2作も1592年に上演されたと書かれている。トマス・ナッシュの『Pierce Penniless』(同年8月登録)には、タルボット卿を扱った人気劇について言及していて、これは(他に該当する劇がないので)『ヘンリー六世 第1部』のことだろう。ロバート・グリーンの『A Groatsworth of Wit』(同年9月登録)というパンフレットには、『ヘンリー六世 第3部』の1行がパロディにされている。『第1部』と『第3部』が1592年に上演されていることから、直接の証拠はないものの、『第2部』もその年に上演されたものと推測される。 1594年に出版された『ヘンリー六世 第2部』は書籍商Thomas Millingtonが同年3月12日に出版業組合(Worshipful Company of Stationers and Newspaper Makers)に登録し、その年のうちに印刷したものである。このテキスト(Q1)は普通『ヨーク、ランカスター両名家の争い 第1部(The First Part of the Contention Betwixt the Two Famous Houses of York and Lancaster)』という題名で知られているが、それは短縮した題名で、正式には『The First Part of the Contention Betwixt the Two Famous Houses of York and Lancaster, With the Death of the Good Duke Humphrey: and the Banishment and Death of the Duke of Suffolk, and the Tragical End of the Proud Cardinal of Winchester, With the Notable Rebellion of Jack Cade: and the Duke of York's First Claim Unto the Crown』である。 この版は2度再版されている(「Q2」1600年、「Q3」1619年)。Q3はウィリアム・ジャガード(William Jaggard)の「フォールス・フォリオ」に収められたものである。 19世紀には、『ヨーク、ランカスター両名家の争い 第1部』はシェイクスピア以外の作者もしく作者たちの作で、シェイクスピアはそれを元に『ヘンリー六世 第2部』を書いたと考えられていた。しかし、現代の批評家たちの意見は、『ヨーク、ランカスター両名家の争い 第1部』は、おそらく『ヘンリー六世 第2部』でサフォーク公およびケイド役の役者が、オリジナルを書き留めたか、記憶を頼りに再現した「悪い四折版(Bad quarto)」であろうと見ている。
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「ミュセドーラス」の記事における「創作年代とテキスト」の解説
『ミュセドーラス』は当時たびたび再版され、17世紀末までに17もの「四折版」が出た。(通常のものとの比較は「シェイクスピアの初期のテキスト」を参照のこと) Q1-1598年、Q2-1606年、Q3-1610年、Q4-1611年、Q5-1613年、Q6-1615年、Q7-1618年、Q8-1619年、Q9-1621年、Q10-1626年、Q11-1631年、Q12-1634年、Q13-1639年、Q14-1663年、Q15-1668年。Q16とQ17については日付がついていない。最初の6つは書籍商ウィリアム・ジョーンズが出版した。 現代の研究家はこの劇の創作年代を1590年頃と推測している。
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「ヘンリー六世 第3部」の記事における「創作年代とテキスト」の解説
シェイクスピアの初期の作品の一つで、(三部作の他の2作とともに)1590年頃に書かれた。1595年に『ヨーク公リチャードの実話悲劇、そして良王ヘンリー六世の死(The true Tragedie of Richard Duke of Yorke, and the death of good King Henrie the Sixt)』として出版された。この時のテキストは1600年と1619年に再版されたが(1619年版はウィリアム・ジャガード(William Jaggard)の「フォールス・フォリオ」に収められたもの)、「ファースト・フォリオ」(1623年)との関連性は研究者たちの間で諸説ある。19世紀には、『ヨーク公リチャードの実話悲劇』はシェイクスピアが『ヘンリー六世 第3部』の元にした作者不明の劇と見る傾向があり、何人かの研究者たちはその作者に、トマス・ロッジ(Thomas Lodge)やジョージ・ピール(George Peele)のような有名劇作家の名前を挙げさえもした。1929年にピーター・アレグザンダーが、このテキストはオリジナルを書き留めたか、記憶を頼りに再現した「悪い四折版(Bad quarto)」であると主張して、それが現代の批評家たちの意見となっている。
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「ヘンリー六世 第1部」の記事における「創作年代とテキスト」の解説
『ヘンリー六世 第1部』はシェイクスピアの戯曲でも初期のものである。一般的に1588年から1590年にかけてとされているが、その創作時期には諸説があり、学者の意見は、『ヘンリー六世』三部作のうち最初に書かれたという説と、反対に最後に「前編(Prequel)」として書かれたという説に分かれている。 劇作家ロバート・グリーン(Robert Greene)は、『ヘンリー六世 第3部』は1592年に書かれたと言及している 研究者の中には、文体を引き合いに出し、『第1部』はシェイクスピアが単独で書いたのではなく、3人以上の劇作家チームで合作されたと主張して、その中には、トマス・ナッシュ(Thomas Nashe)、ロバート・グリーン、クリストファー・マーロウがいたという。しかし、この説は18世紀・19世紀のジャンヌ・ダルクの扱いを嫌った結果であるという意見もある。
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『フェア・エム』は1642年の劇場閉鎖前に2度「四折版」で出版されている。 Q1(最初の四折版):日付も作者名もなし。印刷は「T.N.とI.W.」。表紙に「これは誉れ高きシティ・オブ・ロンドンにて、真に誉れ高き変人卿のしもべたち(Lord Strange's Menのこと)によって、幾度か大衆の前で演じられたものなり」と書かれている。劇団の活動時期から、劇の創作年代は1589年から1593年と推定される。 Q2(第二の四折版):1631年出版。印刷はジョン・ライト。作者名はない。両方の版のフル・タイトルは『A Pleasant Comedie of Faire Em, the Millers Daughter of Manchester. WIth the love of William the Conqueror(マンチェスターの粉屋の娘、美しい(正直な)エムの愉快な喜劇とウィリアム1世の恋)』。
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