『ローマ書』第二版と『時の間』の刊行
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「カール・バルト」の記事における「『ローマ書』第二版と『時の間』の刊行」の解説
1921年からバルトはドストエフスキー、ニーチェ、キェルケゴールを読みこみ、人間の陥る深淵について理解を深めた上で、その知識に基づいて『ローマ書』の改訂版を書き始める。1922年、『ローマ書』の第二版が完成、出版される。この第二版の出版でバルトの神学が高く評価されるとともに、神学者としての立場を堅いものする。このころに若手の神学者が集まり、弁証法神学の機関誌である『時の間』を刊行する。後に対立し続けるエミール・ブルンナーと面識をもったのもこのときである。同年にゲッティンゲン大学から招聘の手紙を受け取り、教壇に立つこととなる。教壇に立つことになった彼は牧師時代の学問上の遅れを取り戻すとともに、自由主義神学から改革派教会の教義学を擁護する任に就く。しかし、聖書を基礎に神学を構築する道が、バルトには明確になっていなかった。1924年にハインリッヒ=ヘッペの『福音主義改革派教会の教義学』を入手。17世紀の古プロテスタント教会の教義学を知り、正統神学を学びなおすきっかけとなった。1925年にミュンスター大学に招聘され、1927年に『キリスト教教義学への序論』、1928年には『神学と教会』を出版するなど精力的に活動し、名声が徐々に高まっていった。 1929年にバルトはアンセルムスの研究を始め、これが後に『教会教義学』として彼固有の神学方法論を確立することになる。バルトは『プロスロギオン』の研究で彼自身が、キリスト教を人間学的=哲学的説明から解放した、と語っている。しかし、天と地、精神と身体、本質と存在という哲学的=人間学的枠組みから解放されたと主張しているようだが、後期のマルティン・ハイデッガーもこのような形而上学的枠組みを解体している。この部分にバルト神学の未解決の問題が存在している。1930年にボン大学の神学教授を歴任する。1931年に社会民主党に入党する。これはナチス勢力を阻止しようとするとともに、反対している意思を表明し、ゴーガルテンのようにドイツ民族主義と明確に区別するためであった。1932年からアンセルムス研究を基礎に、『教会教義学』を出版し始めた。牧会に従事しながら聖書の中に証されている言葉を、具体的な人間に対して神の言葉として聞かせるべき、と考え、牧師の説教の課題として注釈と宣教の革新が必要だと決定づけたからであった。1934年にアドルフ・ヒトラーへの忠誠宣誓のサインを拒否して停職処分を受け、翌年退職処分となる。
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