キダーラ朝との戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 00:05 UTC 版)
「ペーローズ1世」の記事における「キダーラ朝との戦い」の解説
サーサーン朝はシャープール2世(在位:309年 - 379年)の治世以来、キダーラ朝、エフタル、キオン(英語版)、そしてアルハン・フン(英語版)からなる「イランのフン族(英語版)」として知られる東方の遊牧民の侵入に対処しなければならなかった。これらの遊牧民はシャープール2世とクシャーノ・サーサーン朝の庇護下の勢力からトハーリスターンとガンダーラを奪い、最終的にはシャープール3世(在位:383年 - 388年)の治世にカーブルを奪った。考古学、貨幣学、および印章学上の証拠から、これらの勢力はサーサーン朝にも劣らない洗練された水準で自らの領土を統治していたことが明らかとなっている。さらにはサーサーン朝の硬貨(英語版)を模倣するなど、ペルシア人の帝国の象徴体系や紋章を素早く取り入れていた。現代の歴史家であるリチャード・ペインは次のように述べている。「ペルシア人による破壊的なフン族、あるいはローマ人の歴史家による略奪を働く野蛮人といった説明とは程遠く、ペルシア人による支配が失われて以降におけるこれらの中央アジアのフン族の王国は、都市を基盤とし、税を徴収し、思想的にも革新的な国家であり、諸王の王たちはこれらの勢力を追い払うことが困難であると感じていた」。さらに、サーサーン朝は451年にサーサーン朝統治下のアルメニア(英語版)で起こった反乱によってアルメニア人で構成された騎兵部隊を失い、これらの東方の敵を牽制する能力を弱めていた。 5世紀前半にヤズデギルド1世(在位:399年 - 420年)、バハラーム5世(在位:420年 - 438年)、そしてヤズデギルド2世がキダーラ朝に対する貢納金の支払いを強いられたことで、サーサーン朝の努力は大きく傷つけられていた。これらの支出はサーサーン朝の国庫を苦しめる程ではなかったものの、それでもなお屈辱的なものであった。ヤズデギルド2世は最終的に貢納金の支払いを拒否したが、このことは後にキダーラ朝が464年頃にペーローズ1世に対して戦争を宣言した際の口実として利用されることになった。ペーローズ1世はこの戦争を遂行するための十分な人的資源を欠いていたために東ローマ帝国に財政支援を求めたものの、東ローマ帝国はこの要求を拒否した。その結果、ペーローズ1世はキダーラ朝の王であるクンハスに和平と自分の姉妹の一人との縁談を持ち掛けたが、実際には姉妹ではなく代わりに身分の低い女性を送り込んだ。 しばらくした後にクンハスはペーローズ1世に騙されていたことに気付き、軍備を強化するための軍事専門家の派遣を要請することで同じようにペーローズ1世を騙そうとした。300人の軍事専門家の一団がバラーム(恐らくバルフと考えられる)のクンハスの宮廷に到着すると、これらの者たちは殺されるか外見を傷つけられた。クンハスはペーローズ1世による合意への裏切りのためだと伝えて残った者たちをペルシアへ送り返した。一方で同じ頃にペーローズ1世は、エフタルやトハーリスターンの東部に位置するカダグの支配者のメハマ(英語版)を含む他のフン族と同盟を結んでいた。そして466年にこれらの勢力の支援によってキダーラ朝を打ち破り、短期間ではあったもののトハーリスターンをサーサーン朝の支配下に置くとともにバルフで金貨を発行した。金貨の様式はキダーラ朝のものをほぼ踏襲しており、第二の王冠を被っているペーローズ1世の姿が描かれている。また、金貨の銘文にはバクトリア語でペーローズ1世の名前と称号が記されている。翌年の467年にはサーサーン朝の使節がコンスタンティノープルを訪れ、キダーラ朝に対する勝利を伝えた。468年に中国の北魏に派遣されたサーサーン朝の使節も同様にこの勝利を伝えた可能性がある。 キダーラ朝はその後もガンダーラと恐らくはソグディアナも支配していた。しかし、最終的にガンダーラはアルハン・フンに、ソグディアナはエフタルに征服された。バクトリアの年代記によれば、メハマはその後「名高く成功した諸王の王ペーローズの総督」の地位に昇った。しかしながら、トハーリスターンでは権力の空白が続いたことで、メハマは自治権を得るか独立をも獲得した可能性がある。
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