シャープール3世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/08 04:16 UTC 版)
シャープール3世 𐭱𐭧𐭯𐭥𐭧𐭥𐭩 |
|
---|---|
エーラーンと非エーラーンの諸王の王 | |
![]()
エルミタージュ美術館所蔵のクリモワの皿。ヒョウを射殺する王(シャープール3世と推定されている)が描かれている。
|
|
在位 | 383年〜388年 |
|
|
出生 | 不明 |
死去 | 388年 |
次代 | バハラーム4世 |
配偶者 | Yazdan-Friy Shapur |
子女 | |
家名 | サーサーン家 |
王朝 | サーサーン朝 |
父親 | シャープール2世 |
宗教 | ゾロアスター教 |
シャープール3世(パフラヴィー語:𐭱𐭧𐭯𐭥𐭧𐭥𐭩(シャーブフル)、生年不明 - 388年)はサーサーン朝の皇帝(シャーハンシャー、在位:383年 - 388年)。皇帝シャープール2世の息子にあたり、叔父の皇帝アルダシール2世の後をついで即位した。
シャープール3世の治世は概ね平穏であった。西方では、アルメニア王国の宗主権をめぐったローマ帝国との紛争を、アキリセネの和約を結んで終結させた。両帝国がアルメニア王国の領土を分割し、大半がサーサーン朝の支配下に置かれることとなった。一方、東方では、貨幣の鋳造も行われていた重要都市カブールを、アルハン・フンに奪われている。
シャープール3世はターク・イ・ブスタンに岩壁レリーフを刻まさせたことで有名である。のちに皇帝ホスロー2世は、シャープール3世のレリーフを模倣・拡張した。5年間の統治の後、388年にシャープール3世は暗殺された。一部の貴族たちの策謀により、シャープール3世が天幕の中にいた際、天幕の支柱を抜かれ、天幕に押しつぶされて死んだという。彼の息子バハラーム4世が後を継ぎ皇帝に即位した。
名前
「シャープール」はサーサーン朝の3人の君主や、同時代及び後の時代の人々に名付けられた名前である。古代ペルシア語の*xšayaθiya.puθra(「王の息子」を意味する)に由来し、元々は称号の一つであったと考えられているが、遅くとも2世紀後半には人名となった[1]。ギリシア語ではSapur、Sabour、Sapuris、ラテン語では Sapores、Sapor、アラビア語ではSābur、Šābur、新ペルシア語ではŠāpur、Šāhpur、Šahfurと転写される[1]。
生い立ちと即位
シャプール3世は皇帝シャープール2世の息子として生まれた。379年、シャプール2世は息子シャープール(のちの3世)が成人するまでの中継ぎとして、成人後の譲位を条件に異母兄弟アルダシール2世を後継者に指名した[注釈 1][2]。383年まで続いたアルダシール2世の統治は、貴族たちによってアルダシールが暗殺、もしくは追放され終わった。権力を欲した貴族たちの権限を制限した、アルダシール2世に対する貴族の反感のためであったとされる[2]。シャープール3世はアルダシール2世の後を継いで即位した。タバリーの諸使徒と諸王の歴史に記された物語によれば、シャープール2世の子孫に王冠が与えられたために、はじめは臣下たちもシャープールの帝位継承を好意的に受けいれていたが、即位演説の際には、自身の宮廷においては謀略や貪欲さ・独善を許さないと、臣下たちにとっては到底受け入れられないような内容を宣言したという[3]。
治世

アルメニアは、常にローマ帝国とサーサーン朝間の紛争の火種となっていた。シャープール2世の治世下の378年もしくは379年、シャープール2世はアルメニア王国の摂政・マニュエル・マミコニアンを屈服させ、アルメニアにおけるサーサーン朝の覇権を確定させた。この際、スーレーナ率いるサーサーン朝軍がアルメニアに派遣され[4]、スーレーナには「マルズバーン」(辺境伯)の称号が授けられている[5]。この称号付与はアルメニアがサーサーン朝の一つの州として扱われるようになったともとれる[5]。しかしアルダシール2世の治世下では、380年代の初頭にマニュエルが反旗を翻したりと、サーサーン朝・ローマ帝国からの自立の維持に成功している[6]。マニュエルが死ぬ385年または386年の直前に[7]、マニュエルはアルメニアをローマ帝国の保護下に置いている[8]。マニュエルの死に伴い、多くのアルメニア貴族(ナフラール)がアルサケス朝アルメニア王国の国王アルサケス3世から離反し、シャープール3世に新たな王を推戴するよう懇願した。シャープール3世は貴族たちの要求にこたえ、ホスロー4世を王位につけ、妹(従妹?[9])のズルヴァーンドゥフトを降嫁させた[10]。さらにアルメニアに侵攻軍を送り、その大半の領地を占領したため、アルサケス3世は西方のアキリセネに撤退を余儀なくされ、そこでローマ帝国からの援軍を待った[7][8]。
サーサーン朝とローマ帝国は、戦争ではなく、外交交渉を通じた和解をすることで合意した[11][8]。このアキリセネの和約では、アルメニアを東アルメニア王国(サーサーン朝側、ホスロー4世が君臨)と西アルメニア王国(ローマ帝国側、アルサケス3世が君臨)に分割し、それぞれを両帝国の衛星国とすることが決まった[11][5][9]。アルメニアの分割ラインは、北はテオドシオポリス(現在のエルズルム)から南はアミダまで伸びており、アルサケス朝時代の都アルタクサタ(現在のアルタシャト)やドビン(ドヴィン)などアルメニアの大部分はサーサーン朝の支配(保護)下に留まることになった[5][12]。アキリセネの和約では、ローマ帝国がイベリア全域におけるサーサーン朝の覇権を全面的に承認している[13][14][15]。ただし、アキリセネの和約の締結時期は不明である。多くの歴史家は387年のことであるとしているが、384年[9]や389年、390年のことであると考える歴史家もいる[5]。両帝国はコーカサス防衛で協力するようになり、ローマ帝国は不定期ながらもおよそ500ポンド(226キログラム)の金を支払うことで合意している[16][17]。なおこの金の支払いを、ローマ帝国側は政治的な配賦とみなしていた一方、サーサーン朝側はこれを貢納金とみなした[18]。
シャープール3世は、アルメニアの政治的・経済的権力をさらに弱体化させるために、いくつかの州を接収している[19]。 アルツァフ、Utik、Shakashen、Gardman、Koltはカフカス・アルバニア王国(アルサケス朝の傍系、カフカス・アルバニア王国のアルサケス朝が統治)に与えられた[20]。グガルク (ミフラーン朝の統治)はイベリアの支配下におり[21][22]、Arzanene (bidaxsh(辺境伯に相当する)の統治)、Paytakaran、Korjayk (Corduene) 、Parskahaykはサーサーン朝に編入されている[12][19][23]。アルサケス3世がまもなく死去すると、ローマ帝国はアルサケス朝を廃位して西アルメニア州を設置した[4][5]。その結果、多くのアルサケス3世に付き従っていたアルメニア貴族(ナフラール)は、東アルメニア王国に仕えた[12]。東アルメニア王国のアルサケス朝は、この後も428年に皇帝バハラーム5世が廃止するまで存続した[4][5]。シャープール3世のキリスト教徒に対する宗教的寛容さは、歴史家ElisheやエフェソスのJohnの記録からわかる。前者の記録によると、シャープール3世はアルメニア人に惜しみなく贈り物を与え、教会に対しては税金のしはらいは免じているようだ[24]。
ローマとのアルメニアをめぐる戦闘だけでなく、シャープール3世は東方のアルハン・フンとも軍事的衝突が起きていたようである。貨幣の出土状況から、338年以前にシャープール3世からカーブルを奪取したことがわかる。シャープール3世が発行した貨幣をほぼ複製したような貨幣を鋳造している。唯一の違いは、サーサーン朝からの領土奪取を表すために、新たにバクトリア語の銘文「αλχοννο」(alxanno)が追加されたところである[25]。360年代からサーサーン朝の貨幣鋳造の中心地であった、カーブルの喪失は帝国にとって大きな打撃であった[25]。
シャープール3世は5年間の治世の末、388年に暗殺された。一部の貴族たちの策謀により、シャープール3世が天幕の中にいた際、天幕の支柱を抜かれ、天幕に押しつぶされて死んだとされている[26]。シャープール3世の後は、息子のバハラーム4世が継ぎ[27]、399年にはバハラーム4世の後を、シャープール3世のもう一人の息子ヤズデギルド1世が継承した[28]。
文化
硬貨

シャープール3世とバハラーム4世の治世下で、硬貨鋳造の過程は大きく変化したとされる。硬貨の鋳造量が増加するとともに、州によっては複数の種類の硬貨の鋳型が製造されることもあった[29]。シャープール3世の硬貨の特徴として、大半の皇帝の硬貨では皇帝が王冠とkorymbosをかぶっているのに対し、シャープール3世はダイアデムをかぶった肖像を刻んでいることがある。このことは、ダイアデムもまたサーサーン朝の皇帝にとって重要なヘッドギア(頭部につける装飾)であったことを示している[30]。さらに硬貨には、「Mazdēsn bay Šābuhr šāhān šāh Ērān ud Anērān kēčihr az yazdān」、すなわち「マズダーを崇拝する、神聖なるシャープール、イラン(人)と非イラン(人)の諸王の王、その姿/輝きを神々から授けられた者」という称号が刻まれている[31][32]。
岩壁レリーフ
シャープール3世は今日のケルマーンシャー近郊のターク・イ・ブスタンの一角に岩壁レリーフを刻まさせた。レリーフのデザインは、イーワーンと呼ばれる様式である。このレリーフには、2人の王が刻まれており、左の王がシャープール3世、右の王がシャープール2世であると示す銘文も付随している[33]。右の王がシャープール2世の王冠を被っているのに対して、左の王はシャープール3世の王冠を正確に複製している[33]。一般的にサーサーン朝時代のレリーフは、岩壁の表面に描かれることが多いが、シャープール3世の治世下で作成されたレリーフは、バレル・ヴォールト(ヴォールト)の奥に彫刻されている[34]。のちにこの様式を、皇帝ホスロー2世が模倣・拡大している[35]。
-
シャープール2世(右)とシャープール3世(左)のレリーフ[33]
-
左図のレリーフの写し(19世紀、ジョージ・ローリンソンの著作より)
-
レリーフ付近の碑文パフラヴィー文字による銘文
金属皿
エルミタージュ美術館所蔵の「クリモワの皿」(クリモワの財宝の一つ)は、銀製の容器であり、ヒョウを退治する王を描いている。この王の王冠はシャープール3世の王冠と酷似していて、また王冠の上には、球状の布であるkorymbosがかぶせられている[36]。一方で、この王の衣装はメトロポリタン美術館所蔵の皿に描かれたヤズデギルド1世の衣装と酷似している[37]。クリモワの皿の裏面には、7世紀または8世紀のソグド語の銘文が刻まれている[36]。クリモワの皿に描かれた王の肖像について、ハーパーとマイヤーズは著書『ササン朝時代の銀器:王家の形象』(Silver Vessels of the Sasanian Period: Royal Imagery、1981年)の中で、シャープール3世を表している可能性があると考察している一方[38]、『オックスフォード古代末期事典』(2018年)ではヤズデギルド1世と考えている[39]。
印章

シャープール3世の配偶者の一人、Yazdan-Friy Shapurは、雄牛の角を付けた姿でオニキス製の印章に刻まれている。この印章の質は驚くほどよく、現在はフランスのBnF博物館に所蔵されている[40][41]。
脚注
注釈
引用
- ^ a b Shahbazi 2002.
- ^ a b c Shahbazi 1986, pp. 380–381.
- ^ Pourshariati 2008, pp. 57–58.
- ^ a b c Lenski 2002, p. 185.
- ^ a b c d e f g Chaumont 1986, pp. 418–438.
- ^ Lenski 2002, p. 185 (see also note 172).
- ^ a b Toumanoff 1961, p. 5.
- ^ a b c Blockley 1987, p. 229.
- ^ a b c 青木 2020, p. 185.
- ^ Faustus of Byzantium, History of the Armenians, Book 6, Chapter 1
- ^ a b Kia 2016, p. 278.
- ^ a b c Hovannisian 1997, p. 92.
- ^ Toumanoff 1963, pp. 360–361.
- ^ Suny 1994, p. 22.
- ^ Howard-Johnston 2006, p. 27.
- ^ Shayegan 2013, p. 809.
- ^ Payne 2015, pp. 297–298.
- ^ Payne 2015, p. 298.
- ^ a b Bournoutian 2002, p. 53.
- ^ Hewsen 2001, pp. 40, 75.
- ^ Rapp 2014, p. 66.
- ^ Toumanoff 1961, p. 38.
- ^ Toumanoff 1961, p. 31.
- ^ McDonough 2006, p. 252.
- ^ a b Payne 2016, p. 11.
- ^ Pourshariati 2008, p. 58.
- ^ Klíma 1988, pp. 514–522.
- ^ Shahbazi 2005.
- ^ Schindel 2013, p. 818.
- ^ Shayegan 2013, p. 832.
- ^ Schindel 2013, p. 836.
- ^ Shayegan 2013, p. 805.
- ^ a b c Canepa 2013, p. 870.
- ^ Canepa 2018, p. 360.
- ^ Canepa 2018, p. 361.
- ^ a b Harper & Meyers 1981, p. 74.
- ^ Harper & Meyers 1981, p. 75.
- ^ Harper & Meyers 1981, pp. 74–75.
- ^ Hunter-Crawley 2018, pp. 1158.
- ^ “Intaille” (フランス語). medaillesetantiques.bnf.fr. 2025年6月13日閲覧。
- ^ Lo Muzio 2008, p. 201.
参考文献
一次資料
- Faustus of Byzantium, History of the Armenians.
和書
- 青木健『ペルシア帝国』講談社〈講談社現代新書〉、2020年。ISBN 978-4-06-520661-4。
洋書
- Blockley, Roger C. (1987). “The Division of Armenia between the Romans and the Persians at the End of the Fourth Century A.D.”. Historia: Zeitschrift für Alte Geschichte 36 (2): 222–234. JSTOR 4436006. (
要登録)
- Bosworth, C.E. (1999). Ehsan Yar-Shater. ed. The History of al-Ṭabarī, Volume V: The Sāsānids, the Byzantines, the Lakhmids, and Yemen. 5. Albany, NY: State University of New York Press
- Bournoutian, George A. (2002). A Concise History of the Armenian People: (from Ancient Times to the Present) (2 ed.). Mazda Publishers. ISBN 978-1568591414
- Canepa, Matthew P. (2013). “Sasanian Rock Reliefs”. In Potts, Daniel T.. The Oxford Handbook of Ancient Iran. Oxford University Press. ISBN 978-0199733309
- Canepa, Matthew P. (2018). “Earthly Paradises”. The Iranian Expanse: Transforming Royal Identity through Architecture, Landscape, and the Built Environment, 550 BCE–642 CE. University of California Press. pp. 1–512. ISBN 9780520964365
- Chaumont, M. L. (1986). “Armenia Iran ii. The pre-Islamic period”. In Yarshater, Ehsan (ed.). Encyclopædia Iranica, Volume II/4: Architecture IV–Armenia and Iran IV. London and New York: Routledge & Kegan Paul. pp. 418–438. ISBN 978-0-71009-104-8.
- Harper, Prudence Oliver; Meyers, Pieter (1981). Silver Vessels of the Sasanian Period: Royal Imagery. Metropolitan Museum of Art. pp. 1–256. ISBN 9780870992483
- Hewsen, Robert H. (2001). Armenia: A Historical Atlas. University of Chicago Press. ISBN 978-0226332284
- Hovannisian, Richard G. (1997). The Armenian People from Ancient to Modern Times: Volume I: The Dynastic Periods: From Antiquity to the Fourteenth Century. Palgrave Macmillan. ISBN 978-1403964212
- Howard-Johnston, James (2006). East Rome, Sasanian Persia And the End of Antiquity: Historiographical And Historical Studies. Ashgate Publishing. ISBN 0-86078-992-6
- Kia, Mehrdad (2016). The Persian Empire: A Historical Encyclopedia [2 volumes: A Historical Encyclopedia]. ABC-CLIO. ISBN 978-1610693912
- Klíma, O. (1988). “Bahrām IV”. In Yarshater, Ehsan (ed.). Encyclopædia Iranica, Volume III/5: Bahai Faith III–Baḵtīārī tribe II. London and New York: Routledge & Kegan Paul. pp. 514–522. ISBN 978-0-71009-117-8.
- Lenski, Noel Emmanuel (2002). Failure of Empire: Valens and the Roman state in the fourth century A.D.. University of California Press. ISBN 978-0-520-23332-4
- McDonough, Scott (2006). Power by Negotiation: Institutional Reform in the Fifth Century Sasanian Empire .
- Lo Muzio, Ciro (2008). “Remarks on the Paintings from the Buddhist Monastery of Fayaz Tepe (Southern Uzbekistan)”. Bulletin of the Asia Institute 22: 189–208 .
- Hunter-Crawley, Heather (2018). “Perm Treasures”. In Nicholson, Oliver (ed.). The Oxford Dictionary of Late Antiquity. Oxford: Oxford University Press. ISBN 978-0-19-866277-8.
- Payne, Richard (2015). “The Reinvention of Iran: The Sasanian Empire and the Huns”. In Maas, Michael. The Cambridge Companion to the Age of Attila. Cambridge University Press. pp. 282–299. ISBN 978-1-107-63388-9
- Payne, Richard (2016). “The Making of Turan: The Fall and Transformation of the Iranian East in Late Antiquity”. Journal of Late Antiquity (Johns Hopkins University Press) 9: 4–41. doi:10.1353/jla.2016.0011.
- Pourshariati, Parvaneh (2008). Decline and Fall of the Sasanian Empire: The Sasanian-Parthian Confederacy and the Arab Conquest of Iran. London and New York: I.B. Tauris. ISBN 978-1-84511-645-3
- Rapp, Stephen H. (2014). The Sasanian World through Georgian Eyes: Caucasia and the Iranian Commonwealth in Late Antique Georgian Literature. Ashgate Publishing, Ltd.. ISBN 978-1472425522
- Schindel, Nikolaus (2013). “Sasanian Coinage”. In Potts, Daniel T.. The Oxford Handbook of Ancient Iran. Oxford University Press. ISBN 978-0199733309
- Shahbazi, A. Shapur (1986). “Ardašīr II”. In Yarshater, Ehsan (ed.). Encyclopædia Iranica, Volume II/4: Architecture IV–Armenia and Iran IV. London and New York: Routledge & Kegan Paul. pp. 380–381. ISBN 978-0-71009-104-8.
- Shahbazi, A. Shapur (2002). “Šāpur I”. In Yarshater, Ehsan (ed.). Encyclopædia Iranica, Online Edition. New York: Encyclopædia Iranica Foundation.
- Shahbazi, A. Shapur (2005). “Sasanian dynasty”. In Yarshater, Ehsan (ed.). Encyclopædia Iranica, Online Edition. New York: Encyclopædia Iranica Foundation.
- Shayegan, M. Rahim (2013). “Sasanian Political Ideology”. In Potts, Daniel T.. The Oxford Handbook of Ancient Iran. Oxford University Press. ISBN 978-0199733309
- Suny, Ronald Grigor (1994). The Making of the Georgian Nation. Indiana University Press. pp. 1–418. ISBN 9780253209153
- Toumanoff, Cyril (1961). “Introduction to Christian Caucasian History: II: States and Dynasties of the Formative Period”. Traditio (Cambridge University Press) 17: 1–106. doi:10.1017/S0362152900008473. JSTOR 27830424. (
要登録)
- Toumanoff, Cyril (1963). Studies in Christian Caucasian history. Georgetown University Press. pp. 1–599
関連文献
- Greatrex, Geoffrey; Lieu, Samuel N. C. (2002). The Roman Eastern Frontier and the Persian Wars (Part II, 363–630 AD). New York, New York and London, United Kingdom: Routledge (Taylor & Francis). ISBN 0-415-14687-9
- Rezakhani, Khodadad (2017). “East Iran in Late Antiquity”. ReOrienting the Sasanians: East Iran in Late Antiquity. Edinburgh University Press. pp. 1–256.
ISBN 9781474400305. JSTOR 10.3366/j.ctt1g04zr8 (
要登録)
シャープール3世
|
||
先代 アルダシール2世 |
イラン人と非イラン人の諸王の王 383年-388年 |
次代 バハラーム4世 |
固有名詞の分類
- シャープール3世のページへのリンク