アルメニアを巡るローマとの対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:41 UTC 版)
「パルティア」の記事における「アルメニアを巡るローマとの対立」の解説
詳細は「パクス・ロマーナ」を参照 前31年のアクティウムの海戦でアントニウスを破ったのに続き、オクタウィアヌスは彼の政治的権威を統合し、前27年には元老院によってアウグストゥス(尊厳者)と名付けられ、ローマの初代皇帝となった。同じ頃、パルティアではティリダテス2世(ティルダート2世)が反乱を起こし短期間支配権を得たが、プラアテス4世はスキタイ系遊牧民の支援を得て迅速に支配権を回復した。ティリダテス2世はプラアテス4世の息子の一人を連れ去ってローマに逃亡した。前20年に交渉の場が持たれ、プラアテス4世は連れ去られた息子の解放のために尽力した。ローマは解放の見返りとして前53年にカルラエで失われたレギオン(ローマ軍団)の軍旗(英語版)と、生存していた当時の捕虜の返還を受けた。プラアテス4世はこの交換条件は王子を奪還するためには小さな代償であると考えた。アウグストゥスは軍旗の返還をパルティアに対する政治的勝利として歓迎した。この政治的勝利はプロパガンダとして記念コインが発行され、軍旗を収める新たな神殿も建設された。同様にプリマポルタのアウグストゥス像の胸当て(英語版)にもその場面が再現された。 アウグストゥスはこの王子とともに、プラアテス4世にイタリア人の女奴隷を贈った。彼女は後にパルティアの王妃ムサとなる。彼女の子供プラアタケスが無事に王位を継承することを確実にするために、ムサはプラアテス4世に対し、他の息子たちを人質としてアウグストゥスに送るように説得した。アウグストゥスはこの人質もプロパガンダとして活用し、レス・ゲスタエ・ディヴィ・アウグスティ(英語版)に偉大な業績として列挙している。プラアタケスがプラアテス5世(フラハート5世、在位:前2年頃-後4年頃)として王位に就いた時、ムサはこの自分自身の息子と結婚し、彼とともに統治した。パルティアの貴族たちはこの近親相姦関係を拒否し、二人は追放されるかまたは殺害された。。プラアテス5世の後に王座に据えられたオロデス3世(ウロード3世)は僅か2年で真偽の疑わしい残虐行為を理由に排除された。続いて、パルティアからローマに人質として送られていたプラアテス4世の息子を送り返すよう要請が行われ、これを受けて帰国したヴォノネス1世(在位:6年-12年)が王となった。だが、彼はローマ滞在中にローマの行動様式・習慣を身に着けており、そのローマ志向に怒るパルティアの貴族たちは、他の王位継承候補者であるアルタバノス2世(アルタバーン2世、在位:10年頃-38年頃)を支持し、彼はヴォノネス1世を破って国外へと追い出した。ヴォノネス1世はアルメニアに逃走し、当時空位だったアルメニアの王位を手に入れたが、アルタバノス2世の圧力で西暦15年か16年にはその地位を追われ、ローマへと逃走した。 アルタバノス2世の治世中、ユダヤ人平民の兄弟、アニライとアシナイ(英語版)(アニラエウスとアシナエウス)がネハルダ(英語版)(現:イラク、ファルージャ近郊)からやってきて、パルティアのバビロニア総督に対する反乱を引き起こした。総督が打ち破られた後、二人の兄弟は他の場所に反乱が飛び火するのを恐れたアルタバノス2世によって正式にバビロニアを統治する権利を付与された。その後アニライのパルティア人妻は、異教徒と結婚したことでアシナイがアニライを攻撃するだろうという恐れから、アシナイを毒殺した。最終的に、アニライはアルタバノス2世の義理の息子との武力衝突に巻き込まれ、彼によって排除された。ユダヤ人政権が瓦解すると、バビロニア人は現地のユダヤ人コミュニティ(英語版)を嫌うようになり、セレウキア市へ強制的に移住させた。西暦35年から36年にかけてセレウキア市がパルティアに対して反乱を起こした時、このユダヤ人たちは今度は当地のギリシア人とアラム人によって再び追放された。追放されたユダヤ人はクテシフォン、ネハルダ、そしてニシビスへと逃れた。 直接の戦闘こそ避けられたが、パルティア王アルタバノス2世とローマ皇帝ティベリウス(在位:14年-37年)は、互いに自分の意のままになる人物をアルメニア王に擁立しようと、周辺諸国を巻き込みつつアルメニア情勢への介入を繰り返した。更にローマは自らの同盟者としてパルティアを統治させるため、人質としていたパルティアの王子、ティリダテス3世(ティルダート3世)を開放してバビロニアに送り込んだ。アルタバノス2世は一時ヒュルカニアまで撤退を余儀なくされたが、間もなくその地から動員した軍隊を用いてティリダテス3世を王座から排除した。 38年にアルタバノス2世が死去すると、ゴタルゼス2世(ゴータルズ2世)が兄弟のアルタバノスを殺害し権力を握った。もう一人の兄弟、ヴァルダネス1世は一時逃亡したが、ゴタルゼス2世と対立する貴族たちによって呼び戻され、1年後にはヴァルダネス1世が王位を奪い取った。その後も両者の戦いは、西暦48年頃にヴァルダネス1世が暗殺されるまで続いた。西暦49年、パルティアの貴族たちは権力を握ったゴタルゼス2世に対抗するため、ローマ皇帝クラウディウス(在位:41年-54年)に人質となっていた王子メヘルダテスを解放することを懇願した。しかしメヘルダテスを擁立する試みは、エデッサ総督であるアディアベネのモノバゾスの子イザテス(英語版)たちが裏切った事で失敗に終わった。メヘルダテスは捕らわれてゴタルゼス2世の下へ送られ、生きていることは許されたが耳を切断された。この処置は彼が王座を継ぐ資格を喪失させるものであった(パルティア王位に就くためには五体満足である必要があった。)。 ゴタルゼス2世は51年頃に死去し、ヴォノネス2世の数カ月の治世の後、ヴォロガセス1世(ワルガシュ1世、在位:51年頃-77年頃)が即位した。ヴォロガセス1世はアルメニアの混乱に乗じて、兄弟のティリダテス(ティルダート)をその王位につけることを計画し、実際にアルメニア王ティリダテス1世として即位させた。これによってアルサケス朝(英語版)のアルメニア王家が誕生し、パルティアはアルメニアを(短期間の中断を挟みつつも)確固とした支配の下に置いた。アルメニアのアルサケス王家はパルティアの滅亡後も存続した。そして、アルサケス王家はアルメニア以外の周辺国にも確立された。グルジアでもアルサケス朝(英語版)のイベリア王国が成立し、コーカサスのアルバニアでも、アルサケス朝(英語版)のアルバニア王家が継続した。 アルメニアの事件がローマに伝わると、ローマ人はただちに介入の準備を始めた。グナエウス・ドミティウス・コルブロが指揮官に任命され、シリアに軍団を集結させた。一方、ヴォロガセス1世は55年に息子のヴァルダネス2世の反乱に直面し、軍勢をアルメニアから撤退させた。彼は当初ローマに人質を送って妥協姿勢を示したが、反乱の鎮圧前後から、ローマに対して強硬姿勢を取り始め、アルメニアが完全にパルティアの物であることを主張した。このため、ローマ軍司令官コルブロは本格的に戦争の準備を始め、58年にはアルメニアへの侵攻を開始したこの戦争でパルティア軍と、アルサケス朝のアルメニア軍は敗退し、ティグラネス5世がローマによってアルメニア王に擁立された。しかし、ヴォロガセス1世はパルティア貴族たちの前で、改めて弟のティリダテス1世がアルメニアの正統な王であることを宣言し、反撃に転じた。パルティアはコルブロの後任者ルキウス・カエセンニウス・パエトゥス(英語版)に大勝し、アルメニアを回復することができた(ローマとパルティアの戦争 (58年-63年)(英語版))。この結果結ばれた63年の和平条約で、パルティアとローマの間に妥協点が見出された。アルメニア王位はアルサケス朝のティリダテス1世のものとなるが、その代わり彼はネアポリス(ナポリ)市とローマ市の両方で、ローマ皇帝ネロ(在位:54年-68年)によって正式なアルメニア王として戴冠され、頭上に王環(ディアディム)(英語版)を授けられることが合意された。アルメニアで妥協が成立した後、パルティアとローマの和平は長く続いた。このためローマによるパルティアについての記録は乏しくなり、かえってこの時期のパルティア史の詳細は不明瞭となる。ヴォロガセス1世の治世がいつごろまで続いたのかも明確ではないが、79年か80年頃までであろうとされる。
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