アルメニアの共産化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 01:51 UTC 版)
「ナゴルノ・カラバフ自治州」の記事における「アルメニアの共産化」の解説
アゼルバイジャンの共産化から半年余りが経過すると、アルメニアのダシュナク党政権もやはり、ボリシェヴィキによるアルメニア社会主義ソビエト共和国へと取って替えられた。これに際して同年12月1日、ナリマノフはアゼルバイジャン外務人民委員部員であったミルザ・ダヴド・グセイノフとの連名で、次のような宣言を行ったとされる。 アルメニアとアゼルバイジャンとの間の国境問題は解決した。ナゴルノ・カラバフ、ザンゲズル、ナヒチェヴァンはアルメニア共和国の一部と見なされる。 — 『コミュニスト』第2号(1920年12月2日付)より この宣言では、アゼルバイジャンによるナゴルノ・カラバフなどの放棄とアルメニアへの編入が認められている。ナゴルノ・カラバフのアルメニア帰属は、ロシア共和国民族問題人民委員であったヨシフ・スターリンも出席する翌1921年6月3日の党中央委カフカース局 (ru) 総会でも確認された。 しかしナリマノフはこれについて、単にナゴルノ・カラバフへ自治権を付与すると宣言したものが歪められて紙面へ掲載されたのだ、と後日主張し、カラバフの喪失はアゼルバイジャンでの反ソ運動を呼び起こす、と主張してアルメニアへの帰属に強硬に反対するようになった。また、アゼルバイジャン共産党中央委も、そのような合意については関知していないと主張した(ただし、ナゴルノ・カラバフのアルメニア帰属は、アゼルバイジャン共産党機関紙『バキンスキー・ラボーチー』によっても幾度も確認されている)。
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