アゼルバイジャンの共産化
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「ナゴルノ・カラバフ自治州」の記事における「アゼルバイジャンの共産化」の解説
やがてアゼルバイジャンとアルメニアの対立は軍事衝突にまで発展したが、このアルメニア・アゼルバイジャン戦争(英語版)の際、ボリシェヴィキが支配していたロシア社会主義連邦ソビエト共和国は、アゼルバイジャン軍がカラバフへ出動していた虚を衝いて赤軍をバクーへ侵攻させた(赤軍のアゼルバイジャン侵攻(ロシア語版))。そして1920年4月にミュサヴァト党民族主義政権を倒し、ボリシェヴィキによるアゼルバイジャン社会主義ソビエト共和国を成立させた。 この頃のボリシェヴィキには、アゼルバイジャンと同じくアルメニアが共産化されるまでの暫定措置として、ナゴルノ・カラバフとザンゲズルをアゼルバイジャンへ編入することに賛成するアルメニア人党員も多かった。アゼルバイジャン帰属への賛成意見は、アゼルバイジャン革命委員会 (az) 議長であったナリマン・ナリマノフの他にも、アナスタス・ミコヤンやブドゥ・ムディヴァニ、そして赤軍のセルゴ・オルジョニキゼ、ミハイル・レヴァンドフスキー(ロシア語版)などの現地活動家に強かった。 その一方で、ボリシェヴィキの党中央委員会では、これら係争地のアゼルバイジャンへの編入に反対する意見が強かった。ロシア共和国外務人民委員 (ru) であったゲオルギー・チチェーリンは、ナゴルノ・カラバフがアルメニア固有の領土であると述べたが、紛争の解決のためには係争地を2国のどちらでもなく赤軍が直轄統治すべきである、と主張した。しかし、別の党幹部であったセルゲイ・キーロフはこれに反対し、領土問題でアゼルバイジャンを冷遇すれば、未だ活発なミュサヴァトの残党を刺激し、ひいては近隣のイランやトルコでのボリシェヴィキへの不信も強まる、と反論している。 一方カラバフでは、未だドラスタマット・カナヤン(英語版)などアルメニア人ゲリラの影響は根強く、7月にはザンゲズルの編入を試みた赤軍アゼルバイジャン人部隊がアルメニア人によって撃退されている。この時、カラバフ革命委員会議長であったアサド・カラエフは「喧嘩っ早い者が大勢いる場所でロシア軍人を一人殺して、アルメニア人の仕業ということにして下さい」「ザンゲズルにこの〔アルメニア人の〕畜生どもが二度と足を踏み入れないように、まともな人間と資産は残さないでください」との強硬な書簡を他の革命委員会に対して残している(ザンゲズルは、数年前にアルメニア人ゲリラのアンドラニクによる襲撃を受け、数万人のアゼルバイジャン人が追放された土地でもあった)。 アゼルバイジャン側が係争地の領有権を主張するなか、8月になってアルメニアのダシュナク党民族主義政権とロシアとの間で交渉が持たれた。その結果、アルメニア側はナゴルノ・カラバフ、ザンゲズル、ナヒチェヴァンに赤軍の駐留を認め、これらの地域はロシアとの和平が結ばれた後、アゼルバイジャン側の合意のもとにアルメニアへ帰属するとされた。しかし、その後もアゼルバイジャン共産党はカラバフ西部に住むクルド人の間で政治活動を行うことにより、同地をアゼルバイジャンへ接近させようと試みている。
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