ムドロス休戦協定以後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 09:55 UTC 版)
「ハリル・クート」の記事における「ムドロス休戦協定以後」の解説
ハリルは、イギリス占領軍によってイスタンブールで拘束されベキルアー軍刑務所に収監されたが、1919年8月8日に脱獄し、アンカラで第20軍団司令官アリ・フアト・パシャと接触した。アリ・フアトの奨めで、9月半ばにスィワスを訪れて、ムスタファ・ケマル・パシャと会談した。ムスタファ・ケマルは、ハリルにコーカサス戦線に行き部隊をアナトリアに戻し、ロシアから受けられる支援の調査をするよう依頼した。共産党との数ヶ月におよび交渉の後、モスクワとトルコの革命勢力との間の架け橋を築くことに成功したハリルは、1920年4月28日のアゼルバイジャンの共産化の手助けをした後、5月半ばに、トルコ国民軍の非公式の代理人としてチチェーリン、カラハン、カーメネフらと接触し、100000リラ相当の金塊と6万丁の銃と100百万の銃弾の移送を確保した。 モスクワは、ハリルへの物質的支援の見返りにビトリス、ワン、ムシュ各県の一部のアルメニアへの割譲を要求した。ハリルは、100000リラ相当の金塊とともにモスクワを発ち、カラキョセ (今日のアール)で第11カフカス師団長ジャヴィト・ベイ中佐に手渡した。 1921年2月下旬、ハリルは病気を理由にモスクワからトラブゾンに来た。 しかし、ケマルにとって政敵であるエンヴェル・パシャとの関係を疑われたためにトルコでの滞在は許可されず、まずモスクワに戻り、1922年、エンヴェル・パシャがボリシェヴィキに対して闘争を開始すると、ベルリンに移った。 1923年のトルコ共和国の宣言の後、ハリルはトルコに戻ることが許可され帰国した。 1957年にイスタンブールで死去した。
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