1396年の侵攻とは? わかりやすく解説

1396年の侵攻

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/17 01:04 UTC 版)

高麗・李氏朝鮮の対馬侵攻」の記事における「1396年の侵攻」の解説

朝鮮王朝実録によれば1396年12月李成桂壱岐・対馬討伐命じた門下右政丞金士衡を五道兵馬都統処置使に任じ、南在、辛克恭、李茂配下につけ、出立当たって成桂南大門まで見送った日本史料では、この時期朝鮮軍侵攻があったという記録はない。 ただし実録には以下の記録がある。1397年1月慶尚道蔚州浦で降伏した倭寇首領の羅可温(ナガオン)、子の都時老(ドシロ)、配下の昆時羅(コンシラ)が役人人質にして逃亡するという事件があったが、2月10日には朝鮮官職与えて帰順させたとある。また、1398年2月倭寇首領の六、羅可温、望沙門(マンサムン)等に官職与えとともにそれぞれ藤六温、池門と改名させたという。 士衡は翌年1月30日帰還し出迎えを受け、2月8日宴席設けられているので、何らかの功績認められたようである。 これを韓国では、「第2次対馬島征伐」と称している。李朝では以後倭寇帰順帰化政策進めるが、対馬では宗貞茂死後の混乱により活動活発化する。

※この「1396年の侵攻」の解説は、「高麗・李氏朝鮮の対馬侵攻」の解説の一部です。
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