1396年の侵攻
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「高麗・李氏朝鮮の対馬侵攻」の記事における「1396年の侵攻」の解説
朝鮮王朝実録によれば1396年12月、李成桂が壱岐・対馬討伐を命じた。門下右政丞金士衡を五道兵馬都統処置使に任じ、南在、辛克恭、李茂を配下につけ、出立に当たっては成桂が南大門まで見送った。 日本側史料では、この時期に朝鮮軍の侵攻があったという記録はない。 ただし実録には以下の記録がある。1397年1月に慶尚道蔚州浦で降伏した倭寇首領の羅可温(ナガオン)、子の都時老(ドシロ)、配下の昆時羅(コンシラ)が役人を人質にして逃亡するという事件があったが、2月10日には朝鮮の官職を与えて帰順させたとある。また、1398年2月、倭寇首領の六、羅可温、望沙門(マンサムン)等に官職を与えるとともに、それぞれ藤六、林温、池門と改名させたという。 士衡は翌年1月30日に帰還して出迎えを受け、2月8日に宴席を設けられているので、何らかの功績は認められたようである。 これを韓国では、「第2次対馬島征伐」と称している。李朝では以後も倭寇の帰順や帰化政策を進めるが、対馬では宗貞茂の死後の混乱により活動が活発化する。
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