1391年 - 1392年
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「リトアニアの内戦 (1389年-1392年)」の記事における「1391年 - 1392年」の解説
1391年1月21日、ヴィータウタスの一人娘ソフィヤが、モスクワ大公ヴァシーリー1世と結婚した。この縁組はヴィータウタスのスラヴ地域における影響力を高め、またヴィータウタスがポーランドと戦う上でモスクワ国家という同盟者を得たことを意味していた。同時に、ヨガイラの弟レングヴェニスはモスクワによってノヴゴロド共和国の勤務公の地位を追われた。ドイツ騎士団は新総長コンラート・フォン・ヴァレンローデの就任をわざと引き延ばし、戦争の再開を回避した。騎士団の総会がヴァレンローデの選出を遅らせたのだった。1391年5月、新総長ヴァレンローデは、ハンガリー宮中伯(副王)を務めるオポーレ公ヴワディスワフ・オポルチクから6632グルデンを借り、その代わりにトルン近郊のズウォトリャ(スラトリア)城を抵当としてオポルチクに差し出した。ヨガイラはこれに怒り、ドブジン地方に侵攻したが、撃退された。 ヴァレンローデはフランス、イングランド、スコットランドから新たな志願兵を呼び寄せた。騎士団の招集に呼応した者の中には、スコットランド王ロバート2世の娘婿のニスデール領主ウィリアム・ダグラスもいた。1391年の秋、ドイツ騎士団は再びヴィリニュスへの遠征軍を組織した。遠征軍はカウナスで豪勢な祝宴を開いたが、その宴会はアダム・ミツキェヴィチが1828年に発表した叙事詩「コンラート・ヴァレンロート」の中で描かれたことで有名である。遠征軍はヴィリニュス近郊のウクメルゲとマイシャガラの町を破壊したが、2度目のヴィリニュス包囲を行うには輜重が不足していた。1391年11月、ヴィータウタスはヨガイラとスキルガイラの最短の連絡路を絶つべく、メルキネやフロドナの周辺を攻撃した。 一方、ドイツ騎士団はプロイセンの土地を買い取り続けていた。1392年5月には、ヴァレンローデはハンガリー王ジギスムントからノイマルクを購入するための交渉を始めた。もっとも、複数人の公爵がノイマルクの所有権を主張していたために、交渉は決裂した。ノイマルクは1402年になってようやく、モラヴィア辺境伯、ブランデンブルク辺境伯ヨープスト・フォン・メーレンが購入した。1392年7月、騎士団はヴワディスワフ・オポルチクから5万グルデンでドブジン地方を買い取ることに合意した。ドブジン地方の領有権は1377年以来、ピャスト家の公爵たちのあいだで争われていた。シレジアのオポーレ公国の支配者であるオポルチクは、政情の不安定な北方の領地にはほとんど関心が無かったのである。1392年には、オポルチクはドイツ騎士団、神聖ローマ帝国、シレジア諸公国、ハンガリーの4勢力によるポーランド分割を呼び掛けたが、計画に乗る者はなかった。騎士団の土地買い上げにより、ポーランドの北部国境はその安定を脅かされることになった。 ヨガイラもヴィータウタスも相手に対する決定的な優位を得ることができず、内戦の影響によりリトアニア大公国は荒廃していった。ポーランドの貴族たちは戦争の継続には不満であった。ヨガイラがリトアニア国内の問題に忙殺されており、クレヴォ合同条約で期待された利益が現実のものにならないためだった。合同でポーランド人が期待したのは北方での新たな戦争ではなく、ガリツィア、モルダヴィア、ワラキアにおいてポーランドの支配権を確立することだったのである。ヨガイラは宮廷の統卒、南東部での戦闘、病気がちな妻の世話に心を砕いていた。ヨガイラはスキルガイラに代えて別の弟ヴィーガンタスをリトアニアの摂政にしようとしたが、ヴィーガンタスははっきりしない状況下で死んだ。ヴィータウタスまたはスキルガイラによる毒殺と伝えられている。クレメンス・モスカジェフスキは更迭され、代わりにクラクフからヤン・オレシニツキが派遣されて新たなヴィリニュス都督に就任した。ヨガイラはヴィータウタスとの妥協へと動くことを決めた。
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