後亀山天皇と南北朝合一
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 09:17 UTC 版)
「南朝 (日本)」の記事における「後亀山天皇と南北朝合一」の解説
1391年(元中8年/明徳2年)の明徳の乱で有力守護の山名氏を弱体化させ、武家勢力を統率した義満は、和泉・紀伊の守護で南朝と領地を接する大内義弘の仲介で本格的交渉を開始する。1392年(元中9年/明徳3年)初頭、足利一門の畠山基国の攻撃により、南朝の指揮官楠木正勝が楠木氏の本拠地千早城を喪失したことも、交渉の後追いになった。南朝から北朝への神器の引渡し、国衙領を大覚寺統、長講堂領を持明院統の領地とする事、皇位は両統迭立とする事など3か条を条件に和睦が成立し、1392年(元中9年/明徳3年)に後亀山天皇は京都へ赴いて後小松天皇に神器を譲渡し、南朝が解消される形で南北朝合一は成立した(明徳の和約)。南朝に属していた公家は一部は北朝で任官したが、官職は既に北朝の公家で占められており、多くは公家社会への復帰が適わなかったと考えられている。
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