前期倭冦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 17:33 UTC 版)
高麗史と日本側の記録によると、倭寇は元寇以前にも存在して高麗から財産を略奪したがその活動が目に立つほど頻繁になったのは、1350年からであった。その時期から高麗末まで倭寇の侵入は500回あり、特に1375年からは、倭寇のせいで高麗の沿岸に人が住まなくなる程だったという。「高麗史」、「高麗史節要」に拠れば、1389年に高麗は倭寇の根拠地と断定していた対馬に軍船を派遣し、倭寇船300余隻と海辺の家々を焼き、捕虜100余人を救出したという(康応の外寇)。 高麗が朝鮮に代わった後にも倭寇は朝鮮半島各地に被害を与えるが、対馬の守護宗貞茂が対朝鮮貿易のために倭寇取締りを強化した事や、室町幕府将軍・足利義満が対明貿易のために倭寇を取り締まった事によって、14世紀末から15世紀始めにかけて倭寇は沈静化していった。 しかし、新たに将軍となった足利義持は、応永18年(1411年)に明との国交を断絶した。対馬においても宗貞茂が応永25年(1418年)4月に病没し、宗貞盛が跡を継いだが、実権を握った早田左衛門大郎は倭寇の首領であった。
※この「前期倭冦」の解説は、「応永の外寇」の解説の一部です。
「前期倭冦」を含む「応永の外寇」の記事については、「応永の外寇」の概要を参照ください。
- 前期倭冦のページへのリンク