日本側の歴史認識・評価の変遷とは? わかりやすく解説

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日本側の歴史認識・評価の変遷

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 15:12 UTC 版)

ノモンハン事件」の記事における「日本側の歴史認識・評価の変遷」の解説

1980年代末期のグラスノスチ機密資料公開されるまでは、ソ連側情報ソ連情報操作された出典に頼らざるを得なかった。1963年邦訳刊行されソ連軍公式戦史でのソ連軍人的損害が9,824名と過少に記述されていたり、日本軍損失55,000名と過大に記述されていたりしており、ノモンハン戦は日本軍が約2倍 - 5倍の損害被った惨敗であったという評価定着することとなったソ連寄り情報頼りになったため、ノモンハンでの日本軍対す評価辛辣になることが多かった例えば、当時高校歴史教科書も「関東軍満州国モンゴル人民共和国との国境ノモンハンで、ソ連モンゴル軍衝突し機械化部隊圧倒され慘敗し」との記述であったなど、ソ連情報公開前のノモンハン事件対す多く日本国民印象は、司馬大きく変わらないものであった一方で日本軍側は、「陸上戦では敗北したものの、空戦ではソ連軍圧倒して戦果航空機1300機以上撃墜」とする過大な戦果主張しており、戦後になってもその残像消えことはなかった。こういったノモンハン事件に関して定着した評価変わったのが、グラスノスチによる情報公開進んだ1980年代後半以降であり、ソ連軍損害明らかになると、ソ連軍損害少なく隠蔽していたことが明るみ出た。またロシア側により発見され史料による「日本側の被害」は日本側が公表している数値よりもはるかに多い人数挙げており、互いに相手与えた損害過大に見積もっている。 現代の事件評価 日本軍決し惨敗したではなく、むしろ兵力武器補給の面で圧倒的優位に立っていたソ連軍に対して、ねばり強く勇敢に戦った勝ってはいなくても「ソ連軍圧倒的一方的勝利であったとは断定できない」との見解学術的に一般化した三代研究会主張している。歴史家秦郁彦も「一般にノモンハン事件日本軍惨敗だったと言われるが、ペレストロイカ以後旧ソ連側から出た資料によれば実態引き分け近かった」として、ほか「損害の面では、確かに日本軍のほうが少なかった」「領土に関していえば、一番中心的な地域では、ソ連側言い分通り国境線決まったが、停戦間際日本軍はその南側にほぼ同じ広さ確保」と戦闘開始時の目標ソ連達成した日本同等領土得たこと、「それがいまだに中国モンゴル国境問題の種になっています」と指摘している。一方で勝敗の判定何よりも戦争目的達成したかで決まる。そうだとすれば戦闘主目標ノモンハン地区争奪だから、それを失った日本軍敗北評するほかない」としつつも、ジューコフ一方的な勝利を演出するため、自軍損害半分以下、日本軍与えた損害実際の5倍以上であったと吹聴した、とも指摘している。 政軍一体のソ連との比較・分析 また、ソ連側二正面作戦避けるために独ソ不可侵条約によって後顧の憂いを断つなど、この事件単なる国境紛争ではなく本格的な戦争として国家的な計画性持って対応した。これに対して日本側は政府が全く関与していなかったばかりか、日本軍中央ソ連軍大規模な攻勢に出る意図持っていることを見抜け自重するように指導したため、関東軍という出先軍の、辻政信服部卓四郎など一部参謀独断専行による対応に終始した福井雄三著書で「10倍近い敵に大被害与えて足止めをした実戦部隊は大健闘、むしろ戦術的勝利とも言えるが、後方決断力欠如による援軍派遣の遅れと停戦交渉失敗のため戦略的に敗北した」と結論付けている。モンゴルでは日本軍戦死者5万伝えられている。 元ソ連参謀本部のヴァシリイ・ノヴォブラネツ (Василий Новобранец) 大佐の手記では「ノモンハン勝ったのは、兵力武器類の面で優位に立っていたからであり、戦闘能力勝利したのではない」と書いている。 半藤一利2000年に「勝ち負けいいますと、これは国境紛争で、停戦のとき、向こう言い分通り国境直してますから負けですね。しかし、戦闘そのもの互角だった」と記した。また2004年著作では最新鋭装備であったソ連軍に対して日本軍白兵攻撃であったわけで、「日本軍勝ったとまではいえない」と述べている。 須見新一郎戦後このように述べている。「(小松原師団長は)あのソビエト軍をなめているなというかんじですな。あまくみているということですわ」「でたらめな戦争をやったのみならず臆面もなく当時小松原中将およびそのあとにきた荻洲立兵中将は、第一線部隊思わしい戦いをしないからこの戦い不結果終わったようなことにして、各部隊長を自決させたり、処分したしたんですね」「責任負って死ねと。このようなことで、非常に残念なことですが、当時自分直属上司もとより関東軍陸軍省参謀本部も、この戦闘についてちっとも反省しておらなかったと思います。また停戦協定後、参謀本部陸軍省から中佐大佐クラスの人が見えましたが、みんな枝葉末節質問をするんで、私の希望するような、その急所を突くような質問はひとつもないんですね」。ただし、須見はハルハ河西岸への渡河戦で、指揮下の安達大隊が敵中孤立し苦闘している最中に、ビール飲みながら夕食とっていたことを辻にとがめられた際に「安達の奴、勝手に暴進してこんなことになったよ。仕方ないねえ…今夜斥候出して連絡させようと思っとる」と答えるなど、安達大救出消極であったので、辻に一喝されている。この時の須見の対応が停戦後即時解任予備役編入つながっており、辻と須見は終生相容れざる関係となっている。ただしこのビール飲んでいたというのは辻の誤解で、須見が飲んでいたのはビール瓶入っていただとする当番兵の証言もある。 一方で辻は「ノモンハン戦で日本負けていなかった」と主張していた。本当勝てたはずだったのだが、東京から制止されたために負けたことにされてしまったとするのである。辻は太平洋戦争終戦後一時期タイ国内に潜伏していた際に『遺書』と称する手紙日本家族送っており、その中でノモンハン事件について「この北辺草原起った局地戦は、我は支那事変処理しつつ、敵はなんらの拘束受けず生起しのだった兵力比は彼我最初は2対1、最後は4対1で、しかも戦場主導権はあくまで確保し8月末において、一時彼に委しただけだったこれから大規模に奪回しようという時に参謀本部負けた感じたが、現地軍は勝った、少くも断じて負けとらんとの気持であった此の一撃を更に徹底した情勢大局的において決し不利にはならなかったろう」と書いている。

※この「日本側の歴史認識・評価の変遷」の解説は、「ノモンハン事件」の解説の一部です。
「日本側の歴史認識・評価の変遷」を含む「ノモンハン事件」の記事については、「ノモンハン事件」の概要を参照ください。

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