日本側の歴史認識・評価の変遷
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「ノモンハン事件」の記事における「日本側の歴史認識・評価の変遷」の解説
1980年代末期のグラスノスチで機密資料公開されるまでは、ソ連側の情報はソ連に情報操作された出典に頼らざるを得なかった。1963年に邦訳が刊行されたソ連軍の公式戦史でのソ連軍の人的損害が9,824名と過少に記述されていたり、日本軍の損失が55,000名と過大に記述されていたりしており、ノモンハン戦は日本軍が約2倍 - 5倍の損害を被った惨敗であったという評価が定着することとなった。 ソ連寄りの情報が頼りになったため、ノモンハンでの日本軍に対する評価は辛辣になることが多かった。例えば、当時の高校の歴史教科書も「関東軍は満州国とモンゴル人民共和国との国境のノモンハンで、ソ連、モンゴル軍と衝突し、機械化部隊に圧倒されて慘敗し」との記述であったなど、ソ連の情報公開前のノモンハン事件に対する多くの日本国民の印象は、司馬と大きくは変わらないものであった。一方で日本軍側は、「陸上戦では敗北したものの、空戦ではソ連軍を圧倒して、戦果を航空機1300機以上撃墜」とする過大な戦果を主張しており、戦後になってもその残像が消えることはなかった。こういったノモンハン事件に関して定着した評価が変わったのが、グラスノスチによる情報公開が進んだ1980年代後半以降であり、ソ連軍の損害が明らかになると、ソ連軍の損害を少なく隠蔽していたことが明るみに出た。またロシア側により発見された史料による「日本側の被害」は日本側が公表している数値よりもはるかに多い人数を挙げており、互いに相手に与えた損害を過大に見積もっている。 現代の事件評価 日本軍は決して惨敗したのではなく、むしろ兵力、武器、補給の面で圧倒的優位に立っていたソ連軍に対して、ねばり強く勇敢に戦った、勝ってはいなくても「ソ連軍の圧倒的・一方的勝利であったとは断定できない」との見解が学術的には一般化したと三代史研究会は主張している。歴史家秦郁彦も「一般にノモンハン事件は日本軍の惨敗だったと言われるが、ペレストロイカ以後に旧ソ連側から出た新資料によれば、実態は引き分けに近かった」として、ほか「損害の面では、確かに日本軍のほうが少なかった」「領土に関していえば、一番中心的な地域では、ソ連側の言い分通りに国境線が決まったが、停戦間際、日本軍はその南側にほぼ同じ広さを確保」と戦闘開始時の目標をソ連は達成したが日本も同等の領土が得たこと、「それがいまだに中国とモンゴルの国境問題の種になっています」と指摘している。一方で「勝敗の判定は何よりも戦争目的を達成したかで決まる。そうだとすれば戦闘の主目標はノモンハン地区の争奪だから、それを失った日本軍の敗北と評するほかない」としつつも、ジューコフが一方的な勝利を演出するため、自軍の損害を半分以下、日本軍に与えた損害を実際の5倍以上であったと吹聴した、とも指摘している。 政軍一体のソ連との比較・分析 また、ソ連側は二正面作戦を避けるために独ソ不可侵条約によって後顧の憂いを断つなど、この事件を単なる国境紛争ではなく本格的な戦争として国家的な計画性を持って対応した。これに対して日本側は政府が全く関与していなかったばかりか、日本軍の中央もソ連軍が大規模な攻勢に出る意図を持っていることを見抜けず自重するように指導したため、関東軍という出先軍の、辻政信と服部卓四郎など一部の参謀の独断専行による対応に終始した。 福井雄三は著書で「10倍近い敵に大被害を与えて足止めをした実戦部隊は大健闘、むしろ戦術的勝利とも言えるが、後方の決断力欠如による援軍派遣の遅れと停戦交渉の失敗のため戦略的には敗北した」と結論付けている。モンゴルでは日本軍の戦死者は5万と伝えられている。 元ソ連参謀本部のヴァシリイ・ノヴォブラネツ (Василий Новобранец) 大佐の手記では「ノモンハンで勝ったのは、兵力と武器類の面で優位に立っていたからであり、戦闘能力で勝利したのではない」と書いている。 半藤一利は2000年に「勝ち負けをいいますと、これは国境紛争で、停戦のとき、向こうの言い分通りに国境を直してますから、負けですね。しかし、戦闘そのものは互角だった」と記した。また2004年の著作では最新鋭の装備であったソ連軍に対して日本軍は白兵攻撃であったわけで、「日本軍が勝ったとまではいえない」と述べている。 須見新一郎は戦後このように述べている。「(小松原師団長は)あのソビエト軍をなめているなというかんじですな。あまくみているということですわ」「でたらめな戦争をやったのみならず、臆面もなく、当時の小松原中将およびそのあとにきた荻洲立兵中将は、第一線の部隊が思わしい戦いをしないからこの戦いが不結果に終わったようなことにして、各部隊長を自決させたり、処分したりしたんですね」「責任を負って死ねと。このようなことで、非常に残念なことですが、当時の自分の直属上司はもとより、関東軍と陸軍省も参謀本部も、この戦闘についてちっとも反省しておらなかったと思います。また停戦協定後、参謀本部や陸軍省から中佐・大佐クラスの人が見えましたが、みんな枝葉末節の質問をするんで、私の希望するような、その急所を突くような質問はひとつもないんですね」。ただし、須見はハルハ河西岸への渡河戦で、指揮下の安達大隊が敵中孤立し苦闘している最中に、ビールを飲みながら夕食をとっていたことを辻にとがめられた際に「安達の奴、勝手に暴進してこんなことになったよ。仕方ないねえ…今夜、斥候を出して連絡させようと思っとる」と答えるなど、安達大隊救出に消極的であったので、辻に一喝されている。この時の須見の対応が停戦後の即時解任予備役編入につながっており、辻と須見は終生相容れざる関係となっている。ただしこのビールを飲んでいたというのは辻の誤解で、須見が飲んでいたのはビール瓶に入っていた水だとする当番兵の証言もある。 一方で辻は「ノモンハン戦で日本は負けていなかった」と主張していた。本当は勝てたはずだったのだが、東京から制止されたために負けたことにされてしまったとするものである。辻は太平洋戦争の終戦後に一時期タイ国内に潜伏していた際に『遺書』と称する手紙を日本の家族に送っており、その中でノモンハン事件について「この北辺の草原に起った局地戦は、我は支那事変を処理しつつ、敵はなんらの拘束も受けずに生起したのだった。兵力比は彼我最初は2対1、最後は4対1で、しかも戦場の主導権はあくまで確保し、8月末において、一時彼に委しただけだった。これから大規模に奪回しようという時に参謀本部は負けたと感じたが、現地軍は勝った、少くも断じて負けとらんとの気持であった。此の一撃を更に徹底したら情勢は大局的において決して不利にはならなかったろう」と書いている。
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