日本側の方針
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内田尚孝によれば、日本側は1932年当時、熱河省を経済的利益の薄い地域と認識していたが、『第八師団熱河経略経過概況』には1932年6月23日に熱河地方にアヘンを買い付けるために満州国国務院財政部から天野竹蔵を招いたとの記述があり、内田はこのころには経済的利益も見出しつつあったと見ている。1933年2月7日に第8師団参謀部がまとめた『熱河事情の一端』では、熱河省の産業の筆頭にアヘンを挙げている。 日本が熱河作戦を実施したのは、参謀本部の『熱河省兵要地誌』に示される満州国に対する緩衝地としての「消極的利益」に加えて、「平津地方領有ノ為・・・作戦ヲ指導スル場合本地方ヨリ一部ノ作戦ヲ行フノ有利ナルハ当然ニシテ・・・」という、平津(北京(北平)・天津)を含む華北侵略の橋頭堡としての「積極的利益」を見出していたためとしている。 1933年1月11日に陸軍当局がおこなった発表では、「1932年夏には20万以上の勢力を持っていた兵匪義勇軍等も熱河省を除き全満州にわたり集団的反満軍のほとんどが一掃され、全満州の治安回復が成った」とされた。同日、陸軍は熱河問題に関しても発表を行った。それによると 熱河省は旧東北四省の一つとして他の三省とは不可分の関係にある。 満州国独立宣言の際に熱河は満州国の一部として宣布している。 リットン調査委員の質問に対し満州国当局は万里長城が国境である旨を明らかにしている。 熱河省主席湯玉麟は満州国独立宣言書に署名し執政溥儀に対し臣礼を行った。 これらによって熱河省が満州国の一部たることは厳然たる事実であるとし、従って熱河省内の治安を乱す者は満州国の不逞分子、他より省内に侵入する者は侵略者であるので他国が干渉すべきものではないと唱えた。 内田によれば、その正当性は逆説的に「長城以南への侵攻には正当性がない」ことを示していた。1月13日の閣議では、陸相は満州国外には手を出さぬ方針を唱え、関内への侵入を固く禁じる決定が文書でなされた。 1月21日の帝国議会演説において内田康哉外務大臣は政府の正式認識として「熱河問題は満州国の内政問題である」と述べたが、熱河省内で民衆が連日の戦闘に既に犠牲を出していたことから、中国側からは反発が起こった。2月2日衆議院において陸相は熱河省には張学良兵団が3個旅団、湯玉麟部隊、さらに他の方面からの兵匪が集まり9万の兵がいるものの必ずしも一致したものでないことから帰順するものがあると判断するとともになるべく混乱が他の方面に及ばないように慎重な方法を取ることを表明した。 2月4日、昭和天皇は閑院宮載仁参謀総長に熱河作戦は「万里の長城を超えて関内に進入することなき条件」の下で実行を認可した。一方、陸軍側では実質的指導者であった眞崎参謀次長自らが「(外交的手段で解決に至らなければ)兵力ヲ以テ為シ得ル限リ直路平津地方ヲ衝クニ在リ」として、長城線以南への侵攻を考えていた。一方で、陸軍中央は2月10日報道向けに「熱河省・・・は画竜点睛をなすものである。熱河問題と山海関問題とは・・・区別して考へられねばならぬ。前者は満州国内の一事象であり後者は支那領土上に起こった事件であるからである」との声明を発表し、華北への侵入はしないことを表向きに表明した。
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