若宮丸の漂流
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若宮丸は寛政5年11月27日(1793年12月29日)に江戸へ向け石巻湊を出帆した。船の積み荷は、仙台藩の廻米1332俵と藩御用の雑小間木400本だった。しかし、風が薙いだため、若宮丸は東名浜で風待ちした。11月29日に若宮丸は北西風を受けて東名浜を出航した。 若宮丸が磐城平藩領の塩屋崎まで南下したところ、ここで風向きが変わり、また波が船尾を超すほど荒くなり、11月30日に若宮丸は広野沖に停泊した。12月1日、時化のために、若宮丸は船を陸地に寄せるよう試みたが、強風により沖に流されて陸地を見失った。12月2日になって、若宮丸は北風を受けて江戸へ向けて走ろうとしたが、荒波に舵がへし折られ、若宮丸の漂流が始まった。船の転覆を防止するため、12月3日に帆柱が切り捨てられ、12月4日以降に積み荷が投棄された。この他に、乗組員は船の位置をクジで占うなどした。乗組員は雨を飲み水とし、積み荷の米や、釣った魚、船に付着した貝類を食料として飢えと渇きをしのいだという。 出帆からおよそ半年後の寛政6年5月10日(1794年6月7日)、若宮丸の乗組員は陸地を発見して上陸した。乗組員は10日ほど人家を求めて歩き回ったが、人家はどこにも見当たらなかった。この間、若宮丸の船体は、波にくだかれて姿を消した。この島はロシア帝国が支配するアリューシャン列島の中の小さな島だったと考えられているが、具体的にどの島かは特定されていない。
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