若宮丸漂流民たちとの出会いとは? わかりやすく解説

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若宮丸漂流民たちとの出会い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/26 15:12 UTC 版)

新蔵」の記事における「若宮丸漂流民たちとの出会い」の解説

寛政8年1796年1月24日イルクーツクに3人の日本人送られてくる。3人は寛政6年1794年5月10日アリューシャン列島東部の島に漂着した若宮丸漂流民たちで、生き残ってオホーツク送られ15人のうち、先発隊としてやってきた善六辰蔵儀兵衛の3名であった新蔵は3人の世話をすることになり、俸給銀貨120加増され、3人を自宅引き取ったこの頃、既に妻のマリアンナ死んでおり、新蔵庄蔵同居していたが、庄蔵望郷の念と自身の不自由な身体絶望して泣き言ばかり話すため、新蔵からはうとまれていた。 その一方で新蔵は、この時引き取った3人のうちの1人である善六に目をつけていた。新蔵日本語教師の職を得たものの、漢字をほとんど理解しておらずひらがなしか読み書きすることができなかった。それに対して善六漢字読み書き優れ、頭も良かったため、新蔵日本語通訳のトコロコフと共にロシア帰化して日本語教師になるよう善六説得したその結果善六2人説得受けて帰化決意し洗礼受けた洗礼受けた善六は更に辰蔵儀兵衛2人に対して洗礼を受けるように説得し辰蔵洗礼受けたものの、禅宗厚く信仰していた儀兵衛だけは洗礼拒否したため、善六辰蔵儀兵衛の仲は険悪となったこの年の春ごろ、新蔵カテリーナという女性再婚した。そのため、若宮丸漂流民3人と庄蔵新蔵の家を出て新蔵善六辰蔵グループ儀兵衛庄蔵グループ別れて住んだ庄蔵この年の夏に儀兵衛看取られて病死するが、その葬儀の際にも新蔵は姿を現さなかった。そのため後に帰国した儀兵衛は、 「新蔵伊勢産にて、生得怜悧極めて才覚者と聞ゆるなり。しかし、その気持ち薄く同郷生まれ異国同所に同住しながら、足脚さへ寒凍脱落せる庄蔵扱ふさまは、不人情といふことができよう」 — 『北辺探事』 と述べている。 若宮丸の漂流民たちは、11月に5人、12月津太夫や吉郎次ら6人がイルクーツク到着した新蔵新たに到着した11人の世話も引き受け役所漂流民の間に立って漂流民たちに仕事斡旋した享和3年1803年3月7日若宮丸漂流13名はペテルブルクに向け出発し、この一行新蔵加わった新蔵ペテルブルク行き当初役所から認められていなかったのだが、新蔵津太夫力を貸してもらえるように頼み、それを快諾した津太夫新蔵同行役所強く訴えたために実現したものであった一行トムスクエカテリンブルクペルミカザンモスクワ経て4月27日ペテルブルク到着したペテルブルクでは貴族の館に滞在した後、5月16日皇帝アレクサンドル1世謁見し、新蔵通訳のもと10名のうち帰国希望した津太夫儀兵衛左平太十郎の4人の帰国許された。この後新蔵帰国組と行動を共にし、ペテルブルク一緒に見物したのち、6月12日には帰国の途につく4人と使節同行する善六付き添ってペテルブルク発ちクロンシュタット港で5人のことを見送った

※この「若宮丸漂流民たちとの出会い」の解説は、「新蔵」の解説の一部です。
「若宮丸漂流民たちとの出会い」を含む「新蔵」の記事については、「新蔵」の概要を参照ください。

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