若宮丸漂流民たちとの出会い
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寛政8年(1796年)1月24日、イルクーツクに3人の日本人が送られてくる。3人は寛政6年(1794年)5月10日にアリューシャン列島東部の島に漂着した若宮丸漂流民たちで、生き残ってオホーツクに送られた15人のうち、先発隊としてやってきた善六、辰蔵、儀兵衛の3名であった。 新蔵は3人の世話をすることになり、俸給が銀貨120枚に加増され、3人を自宅に引き取った。この頃、既に妻のマリアンナは死んでおり、新蔵は庄蔵と同居していたが、庄蔵は望郷の念と自身の不自由な身体に絶望して泣き言ばかり話すため、新蔵からはうとまれていた。 その一方で新蔵は、この時引き取った3人のうちの1人である善六に目をつけていた。新蔵は日本語教師の職を得たものの、漢字をほとんど理解しておらずひらがなしか読み書きすることができなかった。それに対して善六は漢字の読み書きに優れ、頭も良かったため、新蔵は日本語通訳のトコロコフと共に、ロシアに帰化して日本語教師になるよう善六を説得した。その結果、善六は2人の説得を受けて帰化を決意し、洗礼を受けた。洗礼を受けた善六は更に辰蔵と儀兵衛の2人に対しても洗礼を受けるように説得し、辰蔵は洗礼を受けたものの、禅宗を厚く信仰していた儀兵衛だけは洗礼を拒否したため、善六、辰蔵と儀兵衛の仲は険悪となった。 この年の春ごろ、新蔵はカテリーナという女性と再婚した。そのため、若宮丸漂流民3人と庄蔵は新蔵の家を出て、新蔵、善六、辰蔵のグループと儀兵衛、庄蔵のグループに別れて住んだ。庄蔵はこの年の夏に儀兵衛に看取られて病死するが、その葬儀の際にも新蔵は姿を現さなかった。そのため後に帰国した儀兵衛は、 「新蔵伊勢の産にて、生得怜悧、極めて才覚者と聞ゆるなり。しかし、その気持ちは薄く、同郷に生まれ、異国の同所に同住しながら、足脚さへ寒凍脱落せる庄蔵を扱ふさまは、不人情といふことができよう」 — 『北辺探事』 と述べている。 若宮丸の漂流民たちは、11月に5人、12月に津太夫や吉郎次ら6人がイルクーツクに到着した。新蔵は新たに到着した11人の世話も引き受け、役所と漂流民の間に立って、漂流民たちに仕事を斡旋した。 享和3年(1803年)3月7日、若宮丸漂流民13名はペテルブルクに向け出発し、この一行に新蔵も加わった。新蔵のペテルブルク行きは当初、役所から認められていなかったのだが、新蔵が津太夫に力を貸してもらえるように頼み、それを快諾した津太夫が新蔵の同行を役所に強く訴えたために実現したものであった。一行はトムスク、エカテリンブルク、ペルミ、カザン、モスクワを経て4月27日にペテルブルクに到着した。 ペテルブルクでは貴族の館に滞在した後、5月16日に皇帝アレクサンドル1世に謁見し、新蔵の通訳のもと10名のうち帰国を希望した津太夫、儀兵衛、左平、太十郎の4人の帰国が許された。この後、新蔵は帰国組と行動を共にし、ペテルブルクを一緒に見物したのち、6月12日には帰国の途につく4人と使節に同行する善六に付き添ってペテルブルクを発ち、クロンシュタット港で5人のことを見送った。
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