トランスヴァール併合
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「ヘンリー・ハーバート (第4代カーナーヴォン伯爵)」の記事における「トランスヴァール併合」の解説
1877年4月のトランスヴァール共和国併合に植民地大臣として主導的役割を果たすことになった。 同国は英領南アフリカ(ケープ植民地)の北方にあるボーア人国家であるが、先住民の黒人の最大部族ズールー族としばしば対立していた。しかし財政難であり、政治も対英穏健派の大統領トマス・フランソワ・バーガーズ(英語版)と対英強硬派が鋭く対立して混乱していた。そのためズールー族にいつ征服されるか分からない国情であり、またドイツやフランス、ポルトガルと手を組む恐れも考えられた。 これを不安視していたカーナーヴォン卿は植民地大臣就任時からトランスヴァールと英国植民地を「南アフリカ連邦」として統合してズールー族に対して優位に立つことを考えていた。サー・ガーネット・ヴォルズリー(英語版)将軍をナタール総督に任じて現地に派遣してトランスヴァールに連邦創設の説得にあたらせた。しかしトランスヴァールからの反応は芳しくなく、カーナーヴォン卿は同国を併合してしまうことを決意した。1876年7月にトランスヴァールと黒人部族ペディ族(英語版)の間に戦争が勃発したのを好機として介入を開始し、1877年1月にはイギリス軍がトランスヴァール領へ進駐し、親英派のバーガーズ大統領やトランスヴァール議会と交渉の末に4月2日にトランスヴァール併合宣言にこぎつけた。 南アフリカの白人共同体を一つにまとめたイギリスはズールー族との決戦、ズールー戦争 へと向かっていく。
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