英露鉄道協定の締結
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「スコット・ムラヴィヨフ協定」の記事における「英露鉄道協定の締結」の解説
英露鉄道協定交渉は、露都サンクトペテルブルクにおいて、イギリス大使チャールズ・スコットとロシア外相ミハイル・ムラヴィヨフの間で進められた。ところが、10月の京奉鉄道借款契約調印以降、ロシアは協定成立への熱意を示さなくなってしまった。これは、ひとつには借款契約の正式調印にあたってロシアはイギリスから大幅な譲歩を引き出し、6月来の抗議の目的をひとまず達成したためであり、もうひとつはロシア蔵相セルゲイ・ウィッテがこの協定に反対していたためであった。鉄道出身者であるウィッテ自身、シベリア鉄道・東清鉄道の建設を強力に推し進めてきた当事者であり、また、彼の背後には露清銀行があったところから、京奉鉄道が清国が保有・管理する鉄道となっても、満洲におけるイギリスの鉄道権益であることには変わりがなく、基本的にイギリスからの京奉鉄道からの借款供与を歓迎していなかった。 1899年2月からは、香港上海銀行からの借款が始まったが、ロシアは再び香港上海銀行の借款に抗議を示した。ロシアの抗議は、借款契約の第3条が京奉鉄道の運賃収入が借款の代価となっていること、第6条がイギリス人主任技師が引き続きその地位にあることなどであった。ソールズベリー侯爵はこれに対して逐一説明し、反論した。8月のバルフォア・レサール会談において英露鉄道協定の大枠はすでに決まっていたが、ウィッテの反対もあり、協定案文の討議は遅延気味であった。3月になり、ようやくロシアからの最終案文が示されたが、主任技師問題などのため最終的な合意はさらに遅れた。 1899年4月29日、イギリスとロシアは英露鉄道協定(スコット・ムラヴィヨフ協定)を結び、ロシアは長江流域において鉄道敷設権を求めず、また、他国による同様の企てを支援しないことを約束し、イギリスは万里の長城以北の満洲において同様の対応をとることを取り決めた。調印地はサンクトペテルブルク、調印者はイギリス駐露大使チャールズ・スコットとロシア外相ミハイル・ムラヴィヨフであった。これにより、中国分割における英露対立は一応の収束をみた。
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