ロンドン・シンジケート
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/02 06:25 UTC 版)
1876年、英領ケープ植民地(現在の南アフリカ共和国)のキンバリーでは98の小シンジケートが3600ものダイヤモンド採掘地を持っていた。1880年、セシル・ローズとチャールズ・ラッド(Charles Rudd)がデビアス鉱山会社を設立した。1888年3月13日、デビアス鉱山会社はロスチャイルド家およびアルフレッド・ベイト(Alfred Beit)の援助を受けてバーニー・バルナート(Barney Barnato)のキンバリー・セントラル鉱山会社と合併した。新デビアス(De Beers Consolidated Mines Limited)はダイヤモンド生産の世界シェアを9割ほど握った。1889-90年、デビアスは10社で構成されたロンドン・ダイヤモンド・シンジケートと販売契約を結び、相手方へ原石を供給した。 第二次ボーア戦争終結後、プレミア(Premier)鉱山がロンドン・ダイヤモンド・シンジケートに登録された。この1902年には、デビアス・サッカークラブが、デビアスが南アフリカのケープタウン岸と西ケープ州の近くにダイナマイト工場を建設した際に設立された。その工場はローレンス川河口の真西、フォールス湾岸に置かれた。プレミアは1905年にカリナンを採掘し、翌年シンジケートを脱退した。プレミアは原石を増産してアーネスト・オッペンハイマーに売った。デビアスは1907年恐慌のさなかドイツ領南西アフリカとの競争にもさらされた。短い間、デビアスとロンドン・シンジケートはドイツ領から買い付けることに合意したが、ロンドン・シンジケートは優先してベルギーのアントウェルペン・シンジケートへ売却し、市場を開拓するようになった。1912年、沖積層のダイヤモンド鉱床がベルギー領コンゴ(後のザイール、現在のコンゴ民主共和国など)で発見され、翌年から生産しデビアスと競争した。その2年後に第一次世界大戦が勃発し、デビアスは生産を中断したが、翌年に南アフリカ連邦がドイツ軍を破り、最大のライバルが退場したかに見えた。
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