ロンドン・ギルドホール大学(London Guildhall University)
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「ロンドン・メトロポリタン大学」の記事における「ロンドン・ギルドホール大学(London Guildhall University)」の解説
1848年、ロンドン大主教であったチャールズ・ブロムフィールドは、ロンドンの若い男性の道徳的、知的、精神的状態を改善させるため、午後の授業を始めるように聖職者に命令した。それに答えて、チャールズ・マッキンゼー主教は、クロスバイ・ホールに1つのセッションに対して1シリングの学費を取る、若者のためのメトロポリタン・イブニングクラスを作った。オリジナルのカリキュラムの科目にはギリシャ語、ラテン語、ヘブライ語、英語、歴史、数学、絵画、そして自然哲学が含まれていた。この新しくできたカレッジは1851年、アルバート王子の授業訪問後、王室の保護下になった。 1860年、教室はリデンホール通りにある元ブリックレイヤー社のリバリーホールであった、サセックスホールに移動した。この頃までに、毎年およそ800人の生徒が入学した。 1861年、教室は再建され、シティー・オブ・ロンドン・カレッジと名づけられた。以後20年以上にわたり、このカレッジは商業科目、技術科目の導入の先駆者の1つであった。ホワイトストリートに16,000ポンドを掛け新しい建物を立て(ビクトリア女王、ウェールズの皇太子からの資金援助を受け)、1881年にオープンした。1891年、カレッジは、シティー協会財団からの基金を得る、また3つの機関が協力的に働くことを可能にするというチャリティーコミッショナーの計画の下、バークベック・インスティテュートとノーサンプトン・インスティテュートに加わり、シティポリテクニクを形成した。しかしながら、この計画的な連盟は、それぞれの期間が多かれ少なかれ個々に活動を続けたため、実際には機能しなかった。シティポリテクニクのコンセプトは1906年に解消され、シティ・オブ・ロンドン・カレッジははロンドンカウンティーカウンシルの管理下となった。 1940年12月、カレッジの建物はドイツ空軍の襲撃によって破壊された。シティ・オブ・ロンドン・カレッジは1944年にムーアゲート84番地に移動した。1970年、カレッジはサー・ジョン・カス・カレッジと統合し、シティ・オブ・ロンドン・ポリテクニックを形成した。1992年から2002年7月まで、この機関はロンドン・ギルドホール大学として知られていた。
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