戦地医療奉仕活動
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「アーサー・コナン・ドイル」の記事における「戦地医療奉仕活動」の解説
南アフリカに帝国主義的野心を抱いていたソールズベリー侯爵内閣植民地大臣ジョゼフ・チェンバレンは、南アフリカのボーア人国家トランスヴァール共和国を追い詰め、1899年10月に同国がイギリスに宣戦布告してくるよう持ち込んだ(第二次ボーア戦争)。しかしボーア人は住民として地の利を生かして戦い、侵攻してきたイギリス軍に大きな損害を与えていた。戦死者の増大を前にイギリス本国ではインド人など植民地人を代わりに戦わせ、イギリス人の人的損害を減らすべきことが盛んに主張されるようになった。 これに対してドイルは『タイムズ』紙で「植民地人の兵士を戦地に送るべきという意見が各方面で強まっているようだが、イギリス人が1人も戦地に行かないで植民地の人間に穴埋めさせるのは名誉に関わるのではないか」と主張するとともに、自身もイギリス軍に従軍する決意を固めた。従軍に反対する母への手紙の中でドイルは「私はあなたから愛国心を学びました。ですから私を責めないでください。兵士としてどの程度役にたてるかは分からないですが、自分は模範を示す人間として国に奉仕できると思います。思うに私はイギリスで誰よりも若者たち、特にスポーツを愛する若者に強い影響を与えることができると思います。だから若者の手本になることが重要なのです」と説得している。 しかしドイルはすでに40歳過ぎだったため、陸軍の兵役検査に落ちた。ドイルはやむなく従軍を諦めたが、代わりに50人の医療奉仕団を戦地に派遣するという友人ジョン・ラングマンの計画に医師の1人として参加することにした。 ドイルらラングマン医療奉仕団は1900年3月に英領ケープ植民地首都ケープランドに到着し、ロバーツ卿(英語版)率いるイギリス軍の進軍路をたどって負傷者・発病者の治療にあたった。ドイルも休む暇もなく献身的に働いた。 1900年6月、イギリス軍はトランスヴァール首都プレトリアを陥落させた。ドイルは占領下プレトリアでイギリス軍司令官ロバーツ卿と会見し、医療奉仕団の活躍を報告している。プレトリア陥落で戦争の大勢は決したかのように思われたので(実際にはゲリラ戦争と化してさらに2年続くが)、ドイルは今戦争についての総括の執筆を行うため、また近々行われると見られていた総選挙に出馬すべく、7月に帰国の途に就いた。 帰国後ただちに『大ボーア戦争(英語版)』を執筆したが、この著作はプレトリア陥落でボーア戦争は終結したという前提で書かれたものだったため、この後ボーア戦争が泥沼のゲリラ戦争と化していく中で時流にあっていないものになってしまった。
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