マラヤの擲弾兵と日本人
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 08:20 UTC 版)
第二次世界大戦で日本軍に占領され、戦後にイギリスが再占領した英領マラヤでは、マラヤ共産党 (MCP) の主導した日本軍に対する抵抗組織だったマラヤ人民抗日軍(MPAJA)を母体とする、同党の軍事部門による反英武装闘争が1948年に開始された。 華人系住民による支援を受けて一時は優勢だったMCPだったが、イギリス軍が討伐の主力としたグルカ兵の投入と、戦略村による住民とMCPゲリラの分断政策により、MCPの勢力は衰え、英国から独立した後のマレーシア軍は、タイ国境に残存した数十人のMCP党員のみが活動していると発表していた。 しかし、1989年になってMCPが武装闘争の放棄を声明し、その解放区に外国メディアが入ったところ、マレーシア軍の発表とは大きく異なり、依然として強力な軍と陣地を維持しているMCP解放区の存在が初めて確認された。 しかも、MCPのメンバーには2名の日本人(民間出身者)がおり、終戦直後からMCPと活動を共にしていた事が本人達の口から語られた。この日本人は、MCPの主装備だったM1カービンの下部に取り付けるグレネードランチャーとその擲弾を開発し、MCPの武装闘争を長く支え続けた人物だった。
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