日英関係の悪化と英領マラヤの「スパイ熱」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/01 02:45 UTC 版)
「篠崎スパイ事件」の記事における「日英関係の悪化と英領マラヤの「スパイ熱」」の解説
20世紀に入ってから、英領マラヤでは在留日本人の人口が急速に増加し、1930年代には6千人を超えた。 マラヤの住民の間では日本人は漁業に携わったり、理髪店、写真店、小売店などを経営したりしている、という印象を持たれており、マラヤのほとんどの町や村に1つか2つは日本人の経営する店舗があった。 1932年に英国議会は、日本での軍部の台頭と急速な中国大陸進出による脅威を背景に、シンガポール海軍根拠地建設案を可決し、1935年の建設を目指した。当局は軍港建設の機密保持を厳重にしていたが、1934年12月には、当時のシンガポール日本人会会長で石原産業支店長だった西村吉夫がスパイ容疑で逮捕され、中央警察署で服毒自殺する事件が起きた。 1930年代半ばの日英関係の悪化に伴い、マラヤの住民の間では日本人住民が東南アジアの各地でスパイ活動をしていることが話題となった。シンガポールのミドル路(英語版)はずれのマレー街(Malay Street)やマラバー街(Malabar Street)にあった日本人経営のホテルは、シンガポールの住民の間で、売春やスパイ活動の拠点になっているとみられていた。 1930年代初頭以降、英海峡植民地警察特高科は日本の活動に注目するようになり、1934年には特高科に「日本課」が設置され、1940年の初めには日本課の中に「日本侵略対策班」が組織され、アラン・ブレーズ(Alan Blades)が班長となった。特高科は、シンガポールの日本総領事館員が、日本人を保護するために行われる通常の領事活動の範囲を超えて、スパイ・宣伝活動を行っていることを疑っていた。
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