日英間の外交交渉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/01 02:45 UTC 版)
篠崎らの逮捕直後の1940年9月22日に、シンガポールの豊田総領事は、外交パスポートでシンガポールに入った篠崎が逮捕され、日本総領事館の部屋が捜索を受けたことについて、海峡植民地政府に抗議した。 同月24日に日本の大橋忠一外務次官が駐日英国大使ロバート・クレイギーを外務省に呼んで海峡植民地当局の行動に抗議し、詳しい説明を求めた。 同月27日に再び会談が行われ、クレイギーは被疑内容の詳細報告を受けて、篠崎のように軍の諜報活動に深く関与している人物を日本総領事館が匿っていたことを問題視し、これに対し大橋は、英当局は自らの行動を正当化するために印象操作をしており、豊田は総領事館内を捜索することに同意していなかったので総領事館に対する捜査は不当であり、英側がシンガポール当局の行動を正当化するなら駐日英領事館に対して同様の行動をとる、と主張した。 両者は10月4日にも会談し、会談後クレーギーは英本国に対して、シンガポール当局が総領事館の建物を警察が捜索するという先例を作ったことから、日本側が報復措置に出る可能性があると懸念を示した。 10月11日にクレイギーは英外務省(ハリファックス伯・外務大臣)の回答を大橋に伝え、「豊田は捜索に抗議していなかったし、領事文書の免除は厳格かつ周到に遵守されていた。篠崎と永山は、日本政府の使用者とされていたが、シンガポールで日本総領事の庇護の下に大英帝国の安全を脅かす活動を活発に行っていた。」として、大橋の抗議を拒否し、領事施設の特権を悪用したことについての説明と、「公務」の旅券を持つ個人の立場について整理を要求した。また大橋が日本政府には報復措置をとる権利があるとしたことも妥当なものとはみなされない、とした。 10月30日に大橋はクレイギーに日本政府の回答を伝え、「シンガポールにおける英地方当局の攻撃的な態度・恣意的な行動は外交慣習に反しており、日英の友好関係を損ねている主因だ」と重ねて主張したが、「豊田が捜査に抗議しなかったこと」と「領事文書は捜索対象とならなかったこと」には触れず、また篠崎がスパイ行為で有罪となったとしても、それは篠崎が個人的にやったこと(であり日本政府は関係していない‐編注)、としていた。また駐日英総領事館に対して報復するとの主張は取り下げられた。 11月22日に裁判の判決が宣告された後、日本政府はそれ以上外交上の抗議を続けることはなく、事態を沈静化させた。
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