日英水電の設立
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1910年7月の日英水力電気創立委員会では、静岡県榛原郡上川根村大字奥泉(現・川根本町奥泉)の水利権(上記「牛ノ頚計画」にあたる)を「日英水電」へと譲渡し、その「日英水電」はこれを元に水力発電所を建設し発生電力を県内で販売する、という新方針が定められた。これには、獲得した水利権の一部をもって小規模でも起業を実現することで、日英水力電気発起人が持つその他の水利権を長期保全する狙いがあった。小規模化した新会社日英水電について、日本側発起人はイギリス側との共同出資の可能性も残したが、イギリス側は1910年9月、出資辞退と共有となっていた水利権の放棄を日本側に通知し、11月にはシンジケートも解散して共同出資の可能性は完全に消滅した。 日英水力電気創立委員のうち園田・朝吹・大田黒・久野・田中・副島・毛利・樺山・大谷・中村の10名が発起人となり、1911年(明治44年)2月20日「日英水電株式会社」が設立された。設立時の資本金は120万円。本社は東京市麹町区(現・東京都千代田区)に設置。社長に樺山愛輔が就き、東京の園田孝吉・久野昌一・大田黒重五郎と静岡県の中村円一郎が取締役、東京の毛利五郎と静岡県の木下七郎・山葉寅楠が監査役に名を連ねた。7年後の1918年5月末時点(資本金300万円・株式数6万株)ではあるが、主たる株主は持株数順に侯爵浅野長勲(5000株)・樺山愛輔(4732株)・侯爵徳川頼倫(3750株)・赤星鉄馬(3600株)・毛利元道(3500株)・久野昌一(同)がいる。 日英水電が参入を図った静岡県中部・西部では、静岡市で静岡電灯(1897年開業)、志太郡島田町(現・島田市)で島田電灯(1909年開業)、浜松市で浜松電灯(1904年開業)、磐田郡二俣町(現・浜松市天竜区)で天竜電力(1908年開業)がそれぞれ営業していた。電源は静岡電灯・島田電灯・浜松電灯の3社が小規模火力発電であるのに対し、天竜電力だけが水力発電を採用していたが、小規模であった。水力発電を元に静岡県内での供給を目指す日英水電では、静岡電灯は市営化問題があり介入を避けるべきだが島田電灯・浜松電灯などは事業買収に応じる可能性があるとの事前調査を踏まえ、発電所建設とともに既存電気事業を買収するという方針を定めた。 日英水電が日英水力電気から計画を引き継いだ上記「牛ノ頚」地点は、寸又川合流点のやや上流側にある大井川が大きく湾曲する部分の俗称で、湾曲を利用すると約50メートルのトンネルを開削するだけで25メートルほどの落差が得られるという水力発電の適地である。発電所名を「小山発電所」といい、その出力は1,400キロワットとされた。着工は1911年2月上旬。そして1年後の1912年(明治45年)6月1日より小山発電所は送電を開始した。完成をうけて日英水電は15日金谷駅前の長光寺に200名余りを集めて竣工祝賀式を挙行している。
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