日英和親条約調印
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 20:52 UTC 版)
「ウィンチェスター (帆走フリゲート)」の記事における「日英和親条約調印」の解説
スターリングは、クリミア戦争で敵国となったロシアのエフィム・プチャーチンの艦隊が長崎に入港しているとの情報を得、それを捕捉すべく長崎に向かった。1854年9月7日、ウィンチェスター以下4隻からなる艦隊が長崎に到着。すでにロシア艦隊は長崎にはいなかったが、幕府に対してクリミア戦争に対する局外中立を求めた。ところが江戸幕府は、これを外交交渉のための来航と考え、交渉を開始、同年10月14日(嘉永7年8月23日)に日英和親条約が調印された。スターリングは外交交渉を行う権利は有しておらず、かつ本国からの指示も受けていなかった。しかし、日本の北方でロシア海軍との交戦を行うためには、日本での補給を可能にすることには大きなメリットがあり、本国も追認した。
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