日英離間・対立の中で
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 10:08 UTC 版)
「ウィンストン・チャーチル」の記事における「日英離間・対立の中で」の解説
1931年9月の満洲事変の際には侵略と批判する声もあった中、チャーチルは「日本人が中国で行っている事は我々がインドで行っていることと同じ」、「これで中国も少しは収まるだろう」として支持を表明した。ただし満洲事変は、チャーチルのみならず、当時イギリス世論や政界は一般的に支持する者が多かった。腐敗し国民からの支持も低かった中華民国の政府は統治能力がなく、また蔣介石政権が日本の合法的な通商権益を無法に犯していると考えられていたからである。 一方、昭和期に起きた軍人によるクーデター未遂事件や政治テロ事件である、1932年の「五・一五事件」や1936年の「二・二六事件」に対しては憂慮し、「偉大で名誉ある日本の政治家たちが次々と暗殺者の手にかかってしまった。尊厳と神聖性を持つミカド(Japanese Emperor)とその政府(His Majesty's Government)は懸命に犯罪者を処断したが、日本がこの不可欠の処置を取るのに悲痛な努力を必要としたこと自体に英米は注目している」と述べている。 チャーチルは、イギリスにとって日本は軍事的脅威ではないと一貫して論じていたが、1936年に締結された日独防共協定は、事実上の「日独軍事同盟」であるとみて警戒し、さらに1937年の日中戦争(支那事変)によって日英の利益はますます衝突するようになった。しかしこの頃チャーチルは「日英同盟を破棄したのは間違いだった」と考えるようになった。1936年には「日本は昔、国外に目を転じたローマのようである。(略)日本の中国への浸透は日中あるいは日ソ間の戦争をもたらすであろう。日中間の戦争は中国に勝ち目はないであろうが、ソ連との戦争は日本にとって危険である」と述べている。
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