植民地期
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1492年12月5日、クリストファー・コロンブスがイスパニョーラ島に到達し、翌1493年の2回目の航海では南東部のオサマ川河口にスペイン植民地を建設した。この植民地は1498年8月5日に、新大陸最初の都市であるサントドミンゴ市となった。ここを拠点として、エルナン・コルテスのメキシコ征服やバスコ・ヌーニェス・デ・バルボアの太平洋の調査などの遠征が行われた。このころには、かつて数十万の人口を抱えていた先住民は疫病や鉱山・農場での酷使によってほぼ絶滅していた。 1494年のトルデシリャス条約によって新大陸のほとんどは理論上スペイン領となり、カリブ海域は周辺に広がるスペイン領をつなぐ交通の要衝となった。1513年にはパナマ地峡においてその反対側の海である「南の海」(太平洋)がバスコ・ヌーニェス・デ・バルボアによって発見され、1515年にはパナマ地峡を越える最短ルートである「王の道」が発見されたことで、カリブ海は太平洋との最短ルートとしての機能も担うこととなった。インカ帝国が滅ぼされその故地にペルー副王領が建設されると、このルートは黄金や銀の積出ルートとして非常に重要な役割を持つようになった。王の道の太平洋側にはパナマ市が建設され、ペルー副王領から運ばれてくる黄金や銀はここからカリブ海へ王の道を使って運び出され、スペインへと運ばれていった。カリブ海側の積み出し港は最初ノンブレデディオスだったが、1584年にはそのやや西のポルトベロに拠点が移され、1597年には正式に都市となり、スペイン本国からの船団が寄港するようになった。こうしてカリブ海はパナマ地峡ルートを通る交易路の重要航路となったが、一方でカリブ海諸島域には貴金属などの産出が少なく、また先住民人口も多くなく未開発だったので、いくつかの拠点を除いてはそれほど開発は行われず、半ば放棄されたような土地も多かった。こうした中、1562年にイギリスのジョン・ホーキンズがカリブ海での密貿易を開始し、やがてそれは私掠船による海賊行為となっていった。16世紀後半にはホーキンズやフランシス・ドレークら海賊が沿岸のスペイン領を荒らしまわり、以後も海賊行為は続いた。 17世紀にはいると、スペインの植民地化が及ばない小アンティル諸島を中心に、イギリスやフランスなどがひそかに植民者を送り込むようになった。1623年にはリーワード諸島のセント・キッツ島にイギリスが植民を開始し、フランスはウィンドワード諸島のグアドループ島やマルティニーク島を占拠した。 1655年にイギリスがジャマイカを占領すると、首都ポート・ロイヤルを拠点に海賊が猛威を振るうようになった。この海賊はバッカニアと呼ばれ、イギリスの総督から私掠免許を受けて対立する国家の船を襲った。1650年から1730年までは海賊の黄金時代と呼ばれ、後世にも名を残す大海賊が次々と現れたものの、18世紀前半には私掠戦術自体が衰え、これによって海賊の活動も下火となった。それでも細々と海賊行為は続けられ、19世紀も1820年代に入るまで海賊はカリブ海の脅威の一つだった。 17世紀中盤からは砂糖がこの地域の経済の基盤になり、大きな利益を生む砂糖を目当てに、とくに小アンティル諸島にはヨーロッパ諸国が相次いで植民地を建設していった。デンマークや、現在のラトビア西部に当たるクールラント公国も一時植民地を建設し、17世紀末には、キューバ、プエルトリコ、イスパニョーラ島西部を除くカリブの島々は、すべてスペイン統治下から離れてしまった。一方、大陸部はほとんどがスペイン領にとどまった。これらのカリブ海諸島植民地の経済基盤は砂糖であり、特に1650年代からは、それまで砂糖生産の中心地であったオランダ領ブラジル北東部(ノルデステ)がふたたびポルトガル領にもどったことにより、サトウキビの技術者たちがカリブ海域に流入したことや、それによるノルデステでの砂糖生産の低下により、この海域において大規模な砂糖プランテーションが相次いで開発され、この地方が砂糖生産の中心地となった。これらのプランテーションには多くの労働力が必要であったが、この労働力はアフリカ大陸から連れてこられた黒人奴隷によってまかなわれた。ヨーロッパから工業製品をアフリカに売り、アフリカで奴隷を買い付けてカリブで販売し、カリブで砂糖を購入してヨーロッパへと持ち帰る、いわゆる三角貿易は大きな利益を上げ、この貿易を握っていたイギリスはこれによって産業革命の原資を蓄えたとされる。16世紀から19世紀にかけてカリブ海につれてこられた黒人奴隷はのべ420万人にのぼり、これは新大陸全体の黒人奴隷輸入の42%を占め、最大の奴隷受入地となっていた。またこれらの西インド諸島の農園主たちは本国議会に議席を確保するようになり、18世紀には西インド諸島派として保護貿易と奴隷制を主張する一大勢力をなしていた。一方で、これらの農園主たちは土着するよりはイギリス本国にわたって不在地主化することが多く、イギリス領北アメリカ植民地のようにその土地に根を張ることは少なかった。これらの農園で過酷な労働にさらされた奴隷たちはしばしば逃亡を図り、山間部に逃亡した逃亡奴隷たちはハイチやジャマイカなどでマルーンと呼ばれ、先住民たちと協力しながら山間地にひそみ、自給自足の生活を送りながら白人農園主たちと対立した。サン・ドマングのフランソワ・マッカンダルやジャマイカのグラニー・ナニーなどは後世、抵抗の象徴として英雄化されている。18世紀後半にはイスパニョーラ島東部のフランス領サン・ドマングが世界一の砂糖産地となった。
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