植民地期とは? わかりやすく解説

植民地期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 08:24 UTC 版)

カリブ海」の記事における「植民地期」の解説

1492年12月5日クリストファー・コロンブスイスパニョーラ島到達し、翌1493年2回目航海では南東部オサマ河口スペイン植民地建設した。この植民地1498年8月5日に、新大陸最初都市であるサントドミンゴとなった。ここを拠点として、エルナン・コルテスメキシコ征服バスコ・ヌーニェス・デ・バルボア太平洋調査などの遠征が行われた。このころには、かつて数十人口抱えていた先住民疫病鉱山農場での酷使によってほぼ絶滅していた。 1494年トルデシリャス条約によって新大陸のほとんどは理論上スペイン領となり、カリブ海域は周辺広がるスペイン領をつなぐ交通の要衝となった1513年にはパナマ地峡においてその反対側の海である「南の海」(太平洋)がバスコ・ヌーニェス・デ・バルボアによって発見され1515年にはパナマ地峡越え最短ルートである「王の道」が発見されたことで、カリブ海太平洋との最短ルートとしての機能も担うこととなったインカ帝国滅ぼされその故地ペルー副王領建設されると、このルート黄金や銀の積出ルートとして非常に重要な役割を持つようになった王の道太平洋側にはパナマ市建設されペルー副王領から運ばれてくる黄金や銀はここからカリブ海王の道使って運び出されスペインへと運ばれていったカリブ海側の積み出し港は最初ノンブレデディオスだったが、1584年にはそのやや西のポルトベロ拠点移され1597年には正式に都市となり、スペイン本国からの船団寄港するようになった。こうしてカリブ海パナマ地峡ルートを通る交易路の重要航路となったが、一方でカリブ海諸島域には貴金属などの産出少なく、また先住民人口多くなく未開発だったので、いくつかの拠点除いてそれほど開発行われず半ば放棄されたような土地多かったこうした中、1562年イギリスジョン・ホーキンズカリブ海での密貿易開始し、やがてそれは私掠船による海賊行為となっていった。16世紀後半にはホーキンズフランシス・ドレーク海賊沿岸スペイン領荒らしまわり、以後海賊行為続いた17世紀にはいると、スペインの植民地化が及ばない小アンティル諸島中心にイギリスフランスなどがひそかに植民者送り込むようになった1623年にはリーワード諸島セント・キッツ島イギリス植民開始しフランスウィンドワード諸島グアドループ島マルティニーク島占拠した1655年イギリスジャマイカ占領すると、首都ポート・ロイヤル拠点海賊猛威を振るうようになった。この海賊バッカニア呼ばれイギリス総督から私掠免許受けて対立する国家の船襲った1650年から1730年までは海賊の黄金時代呼ばれ後世にも名を残す大海賊次々と現れたものの、18世紀前半には私掠戦術自体衰え、これによって海賊活動下火となった。それでも細々海賊行為続けられ19世紀1820年代に入るまで海賊カリブ海脅威一つだった。 17世紀中盤からは砂糖がこの地域経済基盤になり、大きな利益生む砂糖目当てに、とくに小アンティル諸島にはヨーロッパ諸国相次いで植民地建設していった。デンマークや、現在のラトビア西部に当たるクールラント公国一時植民地建設し17世紀末には、キューバプエルトリコイスパニョーラ島西部を除くカリブ島々は、すべてスペイン統治下から離れてしまった。一方大陸部はほとんどがスペイン領とどまった。これらのカリブ海諸島植民地の経済基盤砂糖であり、特に1650年代からは、それまで砂糖生産中心地であったオランダ領ブラジル北東部ノルデステ)がふたたびポルトガル領もどったことにより、サトウキビ技術者たちがカリブ海域に流入したことや、それによるノルデステでの砂糖生産低下により、この海域において大規模な砂糖プランテーション相次いで開発され、この地方砂糖生産中心地となった。これらのプランテーションには多く労働力が必要であったが、この労働力アフリカ大陸から連れてこられた黒人奴隷によってまかなわれた。ヨーロッパから工業製品アフリカ売りアフリカ奴隷買い付けてカリブ販売しカリブ砂糖購入してヨーロッパへ持ち帰るいわゆる三角貿易大きな利益上げ、この貿易握っていたイギリスはこれによって産業革命原資蓄えたとされる16世紀から19世紀にかけてカリブ海につれてこられた黒人奴隷はのべ420万人にのぼり、これは新大陸全体黒人奴隷輸入42%を占め最大奴隷入地となっていた。またこれらの西インド諸島農園主たちは本国議会議席確保するようになり、18世紀には西インド諸島派として保護貿易奴隷制主張する一大勢力をなしていた。一方で、これらの農園主たちは土着するよりはイギリス本国わたって不在地主化することが多くイギリス領北アメリカ植民地のようにその土地根を張ることは少なかった。これらの農園過酷な労働さらされ奴隷たちはしばし逃亡図り山間部逃亡した逃亡奴隷たちはハイチジャマイカなどでマルーン呼ばれ先住民たちと協力しながら山間地にひそみ、自給自足の生活を送りながら白人農園主たちと対立したサン・ドマングフランソワ・マッカンダルジャマイカグラニー・ナニーなどは後世抵抗象徴として英雄化されている。18世紀後半にはイスパニョーラ島東部フランス領サン・ドマング世界一砂糖産地となった

※この「植民地期」の解説は、「カリブ海」の解説の一部です。
「植民地期」を含む「カリブ海」の記事については、「カリブ海」の概要を参照ください。

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