内容と特徴
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チャオプラヤー・プラクラン版サームコックは、ラーマ1世に命じられたチャオプラヤー・プラクラン(タイ語版)(「チャオプラヤー・プラクラン」は官名で、本名はホン)を長とするグループ(福建人通訳を含む)が、共同作業によって1802年に完成させた。『三国志演義』のタイ語への翻訳は、この作品が最初と見られる。 チャオプラヤー・プラクラン版は『三国志演義』中国語原典からの厳密な翻訳ではなく、多くの部分で原典の意を汲んだ表現が創作されており、構成にもいくらかの変更が加えられている。原典の「天」の概念に代わり、タイの仏教のブン(功徳)とカム(業)にもとづく因果や道徳を導入しているのも特徴で、英雄性や悲劇性の描写も原典とは異なる意味合いを持つものとなっている。なお、単位や暦はタイのものに置き換えられ、人名や地名には福建語の発音が使われている。 散文で書かれた文章には、当時の日用語(すなわち現代タイ語)の単語が多く用いられている。現代語によるまとまった文章を持つタイ文学史上初の作品とも言われ、平易でありながらまた古典文学的な高い格調を備えているとされる。 一方で、共同執筆者である福建人通訳は教育の低い者であったと想像され、翻訳のミスも指摘されている。劉備の出身地である涿郡を明らかに豚郡と取り違えて訳しているのは、その有名な例である。また章も九十七までしか訳されていないため、完訳には至っていない。
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内容と特徴
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実録(寔録)とは称されているが、中国の実録とは体例が大きく異なっている。形式上の特徴は以下のものが挙げられる。 実録(寔録)と称しながら、体例は寔録(第○紀と数える)と列伝からなる紀伝体である。 王朝が存続している間に印行されていること。これはそれまでの正史である『大越史記全書』の伝統を引いていると考えられる。 皇帝が自ら筆を執って草稿に、コメント(批)を加えるのではなく、加除修正する(欽修)。 廃位された育徳帝・協和帝は第4紀の、咸宜帝は第5紀の末に付されて独立した紀を立てない。 フランスに反抗して廃位された成泰帝・維新帝の寔録は第6紀の附編とされ、やはり独立した紀を立てられていない。 阮朝欽定の正史だけに、とりわけ植民地期以前についてはもっとも基本となる第一級の史料である。しかしながら、植民地期に編纂された嗣徳朝後半期以降の部分はフランスとの関係や植民地化の状況については相当の粉飾が施されているようである。当然ながら対外関係に関わることについては、関係国の史料との対照が必要である。 また、巻数からも明らかなように、紀ごとに記述の精粗に相当の差がある。特に『大南寔録前編』は広南阮氏滅亡によって多くの史料が散逸したため鄭懐徳『嘉定城通志』や黎貴惇『撫邊雜録』など、寔録の元となった史料にあたって比較・校合する必要がある。阮朝は広南阮氏の末裔であるため、北方の鄭氏との関係は阮氏側の立場から叙述されており、この点についても鄭氏側に立つ史料や外国史料との対照が不可欠である。
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内容と特徴
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「マクドゥーガル報告書」の記事における「内容と特徴」の解説
本文と附属文書からなり、本文では戦争と武力紛争下の性暴力をいかに裁くべきかが論じられ、附属文書では日本軍の慰安婦について、日本政府に反論する形で慰安婦制度の責任者の処罰と賠償を勧告している。 全文はアジア女性基金サイト内「慰安婦問題と償い事業をめぐる国内外の論議」>国連等国際機関における審議>国連関係>国連人権促進保護小委員会>E/CN.4/Sub.2/1998/13,22,June,1998「Systematic rape, sexual slavery and slavery-like practices during armed conflict Final report submitted by Ms. Gay J. McDougall, Special Rapporteur」で英語・日本語ともに読める。アジア女性基金による和訳
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内容と特徴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/05 05:17 UTC 版)
この本を奉る表文は、盧思慎・徐居正・李坡の名で作られて冒頭に載せられており、序文は徐居正が書いた。 叙述体裁は編年体である。世祖の時、編纂が試みられた『東国通鑑』は、「長編」として作られた。「長編」は年代順に全ての資料を集めておいたもので、司馬光が『資治通鑑』を編纂するとき、草稿として作ったのが最初のものである。 一方、本の名が「節要」という点に着眼して、「長編」の内容を縮約したものと見る見解もある。しかし、元の資料が不足した韓国古代史では、「長編」がほとんど大部分そのまま載せられたはずである。 朝鮮初期、権近が直叙主義を掲げて儒教的名分論に立脚して著述した『三国史略』は、三国時代の即位年称元法が、礼でないとして、踰年称元法に直して叙述したことに比して、『三国史節要』は三国当時に称したそのままに即位年称元法を採択して叙述し、統一以後には折衷して元年記事を前王の末年記事に記した。また、『東国史略』で排せられた国王と国王関連用語を排せず、そのまま記録した。 なおかつ、権近が新羅中心に叙述した従来の新羅中心の歴史叙述方式を改め、年代表示において、新羅と高句麗が併存し始めた新羅始祖19年より、文武王9年(669年)の統一までは、中国・新羅・高句麗・百済の年紀を小さい文字で2行に書いて、その前後は新羅王の年紀を大きい文字で前に書き、中国年紀は註として付けて、三国に正統無しとし、三国の歴史を各々独立対等になるように扱った。そして、669年(文武王9年)に三国が統一された後、新羅が唐の進駐統治軍を放逐し、名実ともに統一を完遂した676年(文武王16年)以後より新羅を正統として扱い、渤海史は除外させた。これは朝鮮時代に成り立った三国史叙述の定型になり、朝鮮時代の三国史叙述において慣例になっている。 叙述内容は、『三国史記』を基本として、『三国遺事』・『殊異伝(朝鮮語版)』・『東国李相国集(朝鮮語版)』・『世宗実録』「地理志」・『高麗史』「地理志」等を通じて補完し、それらから国家政治と関連する記録を全て包括している。特に、『三国史記』の本紀を中心に叙述したが、三国相互間の戦争記事は一つの編年によって叙述することで記事の重複を避けて、三国間記事の錯誤を矛盾がないように合理的に処理した。 説話・神話・伝説・民談などは無論、天災地変・宗教行事・風俗・狩り・交聘・方言・築城・戦乱など国家の興亡と民の安寧に関係する事件を詳細に収録したが、『三国史記』の志や列伝の内容として冗漫なものは主に処理した。『三国遺事』紀異条に載せられた神話や伝説などもかなり載せている。ただし、檀君朝鮮についての神話は引用していないが、その理由は明らかでない。
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