内容と研究史とは? わかりやすく解説

内容と研究史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/05/17 17:33 UTC 版)

高白斎記」の記事における「内容と研究史」の解説

勝山記』、『塩山向嶽庵小年代記』などとともに武田氏関係する記録史料のひとつと評価されている。内容明応7年1498年武田信虎産まれるところより、天文22年1553年武田義信祝儀までの約56年間の記録原本成立事情などは不明1932年昭和7年)、山梨県郷土史家である萩原頼平による郷土資料集成甲斐志料集成第7巻歴史部に「甲陽日記」として収録される。底本不明であるが、萩原による解題によれば天文22年 栗原左兵衛」「延享2年 柴田仲助」などの奥書持っていたという。1940年昭和15年)には広瀬広一が『箋注高白斎記』として単刊し、これは加藤竹亭旧蔵と言われる甲府市の辻乙三所蔵写本底本としている。辻本1945年昭和20年)の甲府空襲焼失し広瀬本も所在不明であるが、東京大学史料編纂所には1915年大正4年)に作成され辻本転写本であると考えられる謄写本が架蔵されている。 辻・広瀬本は『志料集成本』と共通祖本を持つものと考えられており、送り仮名が『志料集成』本では平仮名、辻・広瀬本では片仮名用いられ奥書一部異なっている。『山梨県史』資料編6中世3上県内記録では東京大学史料編纂所本を底本に「甲陽日記高白斎記)」として翻刻している。 筆者について広瀬例言において栗原氏関係する部分後代竄入とし、原筆者本文多出する「高白」(高白斎=駒井政武)と判断し、これが定説となっている。 『志料集成本の奥書見られる栗原左兵衛山梨郡栗原郷(山梨県山梨市上栗原下栗原)に拠った栗原氏一族で、『甲陽軍鑑』では士隊将として天文21年1552年3月の「常田合戦」に参加している昌清(左衛門佐)の名を挙げ、昌清の子信玄期の詮冬(左兵衛)であるという。「高白斎記」における常田合戦時田合戦上田原合戦など栗原一族に関係する記事は、『甲陽軍鑑』の記述反映している点が指摘されている。 内容についても、前半部が中央の動向加えて甲斐情勢簡略に記した内容になっているのに対し天文9年契機とした後半部武田側に関する動向が特に詳述化していることから原本存在想定され武田遺臣としての栗原氏などにより武田氏用務日誌や『軍鑑』などを基にした編纂物である可能性考えられている。 また、高白斎記』には武田家足軽大将である山本菅助(『甲陽軍鑑』『高白斎記』では「山本勘助」)に関する記述が二カ所存在する。『高白斎記天文13年1544年3月条には、三河国牛久保浪人山本勘助武田家仕官したことを記し勘助武田家仕官天文12年1543年)とする『甲陽軍鑑』とは一年ずれている。また、高白斎記天文18年正月条では、勘助信濃諏訪郡高嶋城(茶臼山城長野県諏訪市)の鍬立(築城)を務めた記しているが、『甲陽軍鑑』には「勘助」の高嶋築城記されておらず、近世の史料には同様の記述見られる

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「内容と研究史」を含む「高白斎記」の記事については、「高白斎記」の概要を参照ください。

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