植民地時代前史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 02:05 UTC 版)
紀元前2800年頃から紀元前1800年頃までのインダス文明の時代は、農業が営まれ、動物が飼育され、統一された度量衡が採用され、道具や武器が使用され、他の都市国家とも通商が行われていた。十分に計画され建設された都市の道路や灌漑設備、排水溝の遺跡--世界最古の公衆衛生システムや地方公共団体を含めて--は、都市計画の知識の証拠を表している。 1872年のセンサスによると、人口の99.3%が農村に住んでおり、彼等はおおむね他の地域と孤立し、農業を中心とした自給自足の生活を営んでいた。農業は村内の食料需要を満たし、繊維、食品加工といった手工業に原料を供給した。多くの藩王国や支配者が貨幣を発行し、貨幣の交換は普通に行われていた。農村は、支配者に農作物の一部を税金として納め、職人は自分のサービスを穀物と交換した。 宗教、とりわけヒンドゥー教やカースト、大家族の制度は経済活動を形成する上で影響を及ぼした。分業を保証し、徒弟に訓練を施し、製造業者が狭い範囲で専門性を保証したので、カーストは、中世ヨーロッパのギルドのような機能を果たした。例えばある地域では、様々な布を生産することは、sub-casteの専門であった。 モスリン、キャラコ、ショールといった繊維製品、胡椒、シナモン、アヘンといった農作物はヨーロッパや中東、東南アジアに輸出され、金銀として還流された。 情報量が不足していることもあり、植民地時代以前のインドは概して定性的に評価することになる。 1600年におけるアクバルの時代のムガル帝国の収入は17.5百万UKポンドであったのに対し、1800年におけるイギリスの総収入が16百万UKポンドであった。イギリス人の来航まで、インドは概して伝統農業に依拠した経済であり、十分に競争的に発達した商業ネットワーク、工業、信用を通して存在していた。 ムガル帝国崩壊後、インドはマラーター同盟によって統治されたが、マラーター王国の歳入のピークも1740年代の1億ルピーであった。1761年、第三次パーニーパトの戦い(en)でマラーター同盟はパーニーパト(en)を喪失した後、マラーター同盟はグワーリヤル、ヴァドーダラー、インドール、ジャーンシー(en)、ナーグプル、プネー、コラープル(en)の連合国家に分解した。 しかしながら、この時にはイギリス東インド会社がインドに進出し、1857年のインド大反乱以降、インドは完全にイギリスの支配下に入った。残存していた藩王国も藩王国間での血みどろの抗争で政治的に不安定な状態になっていった。
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