植民地獲得競争の時代へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 07:17 UTC 版)
「ウィリアム・グラッドストン」の記事における「植民地獲得競争の時代へ」の解説
イギリスのエジプト占領でエジプトにおける利権を排除されたフランスはイギリスへの不満を高めていた。これを見たドイツ帝国宰相オットー・フォン・ビスマルクは、フランスが対独復讐を忘れ、かつイギリスと対立を深めるよう、フランス首相ジュール・フェリーを誘導してフランスに本格的な植民地政策に乗り出させた。 ヨーロッパ諸国の連帯を重視するグラッドストンは1884年6月にエジプト問題について話し合うロンドン会議(英語版)を開催して英仏の利害関係調整にあたろうとしたが、ドイツがフランスに支持を与えたため、会議は満足な成果を上げられなかった。この結果を見てグラッドストンも今やドイツの支持が無ければ国際協調は成り立たないと認識した。そのためグラッドストンはドイツのニューギニア併合を認めるなど親独的な態度をとる事が多くなっていった。 こうしたグラッドストンの中途半端な態度は、フランスやドイツの本格的なアフリカ大陸進出を招き、アフリカ分割は一気に加熱していくことになった。 1884年11月にはベルギー国王レオポルド2世が領有権を主張するコンゴをめぐってビスマルクがベルリン会議を開催した。この会議でヨーロッパ列強はコンゴにおける利害関係を調整しながら、今後の植民地分割のルールを策定した。 これ以降全世界規模で欧米日など列強諸国が表向き協調しつつ、競争して植民地獲得に乗り出すという帝国主義時代が本格的に到来することになった。
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