奴隷の処遇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 02:26 UTC 版)
「アメリカ合衆国の奴隷制度の歴史」の記事における「奴隷の処遇」の解説
詳細は「アメリカ合衆国における奴隷の扱い(英語版)」を参照 歴史家のケネス・スタンプは奴隷制における強制力の役割について「州が奴隷所有者に与えた罰を与える権限がなければ、隷従は存在し得なかった。他の全ての管理方法と比較しても他の方法の重要さは2次的なものに過ぎなかった。」と述べている。スタンプはさらに、報酬を奴隷に与えることは奴隷が適切に成果を上げる役には立ったが、大半は次のアーカンソー州の奴隷所有者の言に同意したとも注釈している。 さて、私の知っていることを話そう。黒人を働くように説得しようとすることは「豚に真珠を投げること」に似ている。奴隷は働くように仕向けなければならないし、その義務を果たさなかったらそのために罰を受けることを常に理解させて置くべきである。 — Stampp, The Peculiar Institution pg. 171 ピュリッツァー賞受賞者の歴史家デイビッド・ブライオン・デイビスとマルクス主義者の歴史家ユージーン・ジェノヴェーゼによれば、奴隷の処遇は過酷で非人間的なものであった。働いているときも公衆の中を歩いているときも、奴隷として生きる人々は合法の暴力で規制された。デイビスは、奴隷制のある観点で「福祉的資本家」の見方を採り、次のように指摘している。 我々は、深南部のこれら同じ「福祉的資本家」のプランテーションが基本的に恐怖で支配されていたことを忘れてはならない。最も親切で人間的な所有者であっても暴力を恐れさせることだけが、当時の観察者が「正規の訓練された兵隊」と指摘したように、「規律を持って」朝から晩まで畑の集団を働かせる手段であった。度々公衆の前で笞打つことは不十分な労働、無秩序な行動、あるいは上位のものの権威を受け入れない行動に対する罰を全ての奴隷に思い出させた。 — Davis pg. 196 大規模プランテーションでは、奴隷の監督者が従わない奴隷を笞打ち、残忍に扱うことを認められていた。奴隷法は暴力を認め、免責にし、また要求すらしており、それが奴隷制度廃止運動家によって残忍と非難された。奴隷も自由黒人も「黒人法(英語版)」(英語: Black Codes)によって規制され、その行動は白人から募集された奴隷警邏隊によって監視され、警邏隊は逃亡した奴隷に略式の罰を与えること、時には傷を負わせたり殺すことさえも許された。肉体的な虐待や殺人に加えて、奴隷達は、所有者が利益や、罰あるいは負債の償還のために売り渡すと決めた場合はその家族の一員を失う危険性をいつも抱えていた。主人や監督者を殺したり、納屋を燃やしたり、馬を殺したりあるいは仕事を鈍くしたりして報復する奴隷もいた。スタンプは、ジェノヴェーゼの主張する奴隷が直面していた暴力や性的搾取に関しては異議を唱えず、主人と奴隷の関係の分析についてマルクス主義的アプローチをすることの適切さに疑問を投げ掛けた。 ジェノヴェーゼは、奴隷がその所有者の合法的な財産であったので、奴隷にされた黒人女性がその所有者、所有者の家族の一員あるいは友人によって強姦されることは異常ではなかったと主張している。その結果として生まれる子供達は、奴隷所有者により解放されない限り、その母の状態を引き継ぎ奴隷のままであった。One drop ruleにより奴隷の血が少しでも混じっていればその人間は白人と同等の権利は認められなかった。これは混血児でも父親が認知すれば相続権も認められた南米とは対照的である。ネル・アーウィン・ペインターや他の歴史家は、南部の歴史が「人種差別を越えて」行ったとも記した。当時の農園主階級と結婚したメアリー・チェスナットやファニー・ケンブルの証言や、公共事業促進局の下に集まった元奴隷達の証言は、女奴隷が所有者や監督者階級の白人男性に虐待されたことを裏付けていた。 しかし、ノーベル経済学賞を受賞したロバート・フォーゲルは、奴隷の増殖と性的搾取が伝説としての黒人家族を破壊したと信じると述べることで議論を呼んでいる。家族は奴隷制の下の社会的組織で基本単位であり、農園主が奴隷家族の安定を奨励することは経済的利益にも繋がったので、多くの者がそうした。奴隷の大半は家族ごと売られるか、家族の元を離れても良いと考えられる年齢に達した個人が売られた。 ジェノヴェーゼによれば、奴隷達は最小のやりかたで食べ物と着るものと家、それに医療を与えられた。クリスマスに少額のボーナスを渡すのが普通であり、奴隷所有者の中には奴隷達が稼ぎを貯めたり、賭け事をすることを認める者もいた。一人の奴隷、デンマーク・ビージーは宝くじに当たってその自由を買ったことで知られている。多くの家庭では、奴隷の肌の色によって扱いが変わることがあった。色の黒い奴隷は農園で働き、明るい色の奴隷は家の従僕となり、よりましな衣服、食物、住居を与えられた。 トーマス・ジェファーソンの有名な家庭のように、肌の色という概念的な問題ではなかった。時として、農園主は肌の色が明るい奴隷は彼らが血が繋がっている親戚であるという理由で農作業を免じ家僕として使役した。ジェファーソン家の奴隷の何人かはその義父とジェファーソンの妻によって結婚させられた奴隷女性の子供達であった。若い奴隷の女性サリー・ヘミングスはトーマス・ジェファーソンと性的関係があり、ジェファーソンの妻が死んだ後の子供を生んだと言われており、ジェファーソンの妻にとっては異母妹であった。 しかし、フォーゲルは奴隷の生活における物質的条件は自由工場労働者のそれに比してかなり良かったとしている。現在の基準からすればそれほど良くはないにしても、この事実は19世紀前半の自由にしろ奴隷にしろ全ての労働者の厳しい運命を表している。典型的な農場奴隷はその全生涯で生産したものから得られる収入の90%近くを受け取ったと言われる。 調査に拠れば58%の歴史家と42%の経済学者は、奴隷の生活における物質的条件は自由工場労働者のそれに比してかなり良かったという仮説に同意していない。 奴隷が犯罪を犯した場合、法律的には非人間と考えられた。アラバマ州の裁判所は、奴隷が「分別のある存在であり、犯罪を犯すことができる、犯罪である行動に関しては奴隷は人間である、彼らは奴隷であるから公的な活動は出来ないのでそのような場合は、彼らは物であり、人間ではない」と主張した。
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