奴隷の用途
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/05 08:36 UTC 版)
古代ローマの奴隷の用途は、極めて多岐にわたる。主に、都市の邸宅で使役される家内奴隷と、地方の奴隷制農場(ラティフンディウム)などに用いられる使役奴隷に大別される。以下、詳細を述べる。 自作農が所有する奴隷 古代ローマは、地中海を制する覇権大国となる以前の、小規模都市国家だった頃から、奴隷を有する社会であった。貧しい自作農であっても、1人か2人程度の奴隷を所有するのが普通であった。そうした奴隷は、貧しい農民にとっての大切な労働力、高価で貴重な財産として、大切に扱われた。 農場の奴隷 ローマが覇権大国になると、大土地所有による奴隷制農場が盛んになり、ラティフンディウムの成立を見る。新たにローマの支配下となった国の多くの農地が国家所有となり、それを奴隷を多数所有するローマの貴族や富裕者が借り上げ、使い捨ての奴隷の過酷な労働により、多大な収益をあげたのである。 執政官を務めた大カトーが記した『農業論』には、60ヘクタールの奴隷制オリーブ園には13名の奴隷(管理人1名、家政婦1名、農夫5名、御者3名、ラバ飼い1名、羊飼い1名、豚飼い1名)が必要で、25ヘクタールの葡萄園には15名の奴隷(管理人1名、家政婦1名、農夫10名、御者1名、ラバ飼い1名、豚飼い1名)が必要であると説いている。大カトー以外にも諸説あり、2ヘクタール当り1名の奴隷が必要であると説いている書物もある。 古代ローマ時代の農業指導書には、郊外の農場においては農場管理人以外の労働者は、なるべく働かまいとする奴隷よりも、出来る限り利益をあげようとする自由人を雇用するほうが良いとする記述もある。これは奴隷を強制的に酷使するよりも、自由民の自発的労働のほうがより効率が高いという考え方によるものである。共和政ローマ時代の繁栄を支えた自由農民による農場に比して、奴隷制の大規模農場は財力の誇示に過ぎないとする価値観も一部にあったといわれる。これがのちのコロナートゥスへの移行の伏線となる。 一般の家内奴隷 ローマの家内奴隷は、農場の使役奴隷ほどには過酷な境遇ではなかった。後述する通り解放奴隷となるチャンスも十分にあった。もちろん、多数の家内奴隷を有するのはローマの貴族であり、彼ら家内奴隷の悪く無い境遇も、農場の奴隷の過酷な労働に支えられたものであった。 家内奴隷は業務ごとにそれぞれ別個の人間が割り当てられる場合も多く、乳母、子供の世話、教育(家庭教師)、給仕、輿担ぎ、手紙の朗読、代筆、食事時の演奏者、門番、夜伽(よとぎ)、時報、使い走りなどがあった。これら以外にも洗濯、衣服の縫製、散髪、性的奉仕などの業務もあった。 高度専門職 教師、会計士、医師、貴族の秘書など。このような知的労働であっても、古代ローマにおいては奴隷の仕事であった。それら知的労働に携わった奴隷は、その職務に見合った高い待遇を得ていた。特に厚遇されたのは家庭教師であり、自らの主人の子弟にあたる自分の生徒に軽い体罰を与える事すら認められていた。当時の地中海世界で最高学府とされるのはロードス島であり、そこで学んだギリシア人の奴隷が、特に高額で売買された。 剣闘士 剣闘士は見せ物のために殺しあいをさせられる職業であり、特に反抗的な奴隷が懲罰的に剣闘士にされた。その境遇をはかなんで自殺に及ぶ奴隷もいれば、後述の通り大規模な反乱を起こした奴隷もいる。ただしその一方で、勝ち続ければ観客からの拍手喝采を浴び、20戦ほどすれば奴隷身分から解放された。剣闘士の中には、解放されても観客の拍手喝采を浴びた栄光が忘れられず、自らの意志で再び剣闘士の境遇に戻った者すらいた。 役人・官吏 古代ローマの行政官職は、ローマの貴族が自らの名誉のために行う無料奉仕であった(もちろん官職に伴う利権はあったが)。当然ながら貴族が担う上級職ばかりでは国家運営はままならず、下級官吏が必要であり、それらを担ったのは貴族が個人的に所有する奴隷であった。皇帝や属州総督が所有する奴隷の中には高度な行政事務に携わる奴隷もおり、権力や蓄財を恣にする奴隷も居た。 従者 古代ローマの貴族は、特に忠実な奴隷として、2.3人の従者を抱えていた。彼ら従者は、幼少の頃より将来仕えるべき主人となるべき貴族の子弟とともに、同じ家庭教師から教育を受けて、大切に育てあげられた。ガイウス・グラックスの従者のように自殺して主人の後を追ったり、ガイウス・ユリウス・カエサルの従者のように命懸けで暗殺された主人の遺体を回収したりなど、その主人への忠実さが美談として伝わっている。 公有奴隷 公有奴隷という区分もあり、国家や都市が多くの奴隷を所有していて、道路や公共施設の補修や帳簿作成など様々な公共の仕事をさせていた。特に国営の鉱山での労働に従事する奴隷の待遇は、農場での奴隷同様に過酷なものであった。また、罪を犯した奴隷は罰として公衆浴場や下水溝の清掃をさせられていた。 このように奴隷の仕事が多岐にわたったのは、古代ローマの市民が労働によって報酬を得る職業を卑賤なものと看做したからであった。たとえ国家の役人であっても、報酬をもってこの職業に就く事は憚られたのである。
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