第5、第6の哨戒 1942年10月 - 1943年6月
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「ソーリー (潜水艦)」の記事における「第5、第6の哨戒 1942年10月 - 1943年6月」の解説
10月31日、ソーリーは5回目の哨戒でソロモン諸島方面に向かった。ニューブリテン島近海で27日間の哨戒期間中、ソーリーは27の接触を得て、少なくとも11月18日、22日、26日および12月13日に接触した4つの目標は明確に確認できた。哨戒を通じて合計13本の魚雷を発射し、少なくとも1本は命中したものと考えられた。12月21日、ソーリーは51日間の行動を終えて真珠湾に帰投。本土に回航され、12月29日にメア・アイランド海軍造船所に到着。オーバーホールに入った。オーバーホール期間中、ソーリーに高性能潜望鏡とバチサーモグラフ(英語版)が取り付けられた。艦長がアンソニー・H・ドロップ少佐(アナポリス1932年組)に代わった。ソーリーは1943年4月16日に真珠湾に戻った。 5月7日、ソーリーは6回目の哨戒で東シナ海に向かった。ソーリーはこの哨戒を通じて、高性能潜望鏡とバチサーモグラフのテストも行うことになっていた。5月11日にミッドウェー島に寄港し補給を行った。5月19日、ソーリーは台風に遭遇し、5月20日には最悪の一歩手前の状態になったが、その翌日に悪天候は止んだ。5月25日、ソーリーは奄美大島近海の哨戒海域に到着。翌5月26日9時ごろ、ソーリーはこの哨戒で最初の敵艦船を発見したが、追いつけないぐらい遠方にいたので攻撃しなかった。1時間後、ソーリーは北緯28度50分 東経129度32分 / 北緯28.833度 東経129.533度 / 28.833; 129.533の地点で那覇に向かう鹿第11船団を発見。10時30分、ソーリーは貨客船嘉義丸(大阪商船、2,509トン)に対して魚雷を3本発射。魚雷は44秒後と1分後に嘉義丸に命中し、その9秒後に命中した3本目の魚雷によって嘉義丸は左に大きく傾いて8分後に沈没した。9発もの爆雷が投下されたものの、ソーリーに被害はなかった。 5月28日午後、ソーリーは北緯27度40分 東経125度55分 / 北緯27.667度 東経125.917度 / 27.667; 125.917の地点でマストを発見し、16時43分に潜航。17時24分、ソーリーは護衛なしで空船状態で航行中の海軍徴傭タンカーあかつき丸(日本海運、10,216トン)に対して魚雷を4本発射。3本外れたものの、1本が命中。あかつき丸は速度を減じた上で爆雷を2発投下した。ソーリーは2度目の雷撃で魚雷を6本発射し、4本を命中させてあかつき丸を撃沈した。 5月29日午後、ソーリーは浮上哨戒中に、21キロ先にタバコのような煙を発見。19時13分、ソーリーは潜航し、上海に向かっていた佐第25船団を追跡。20時58分に浮上して攻撃し、北緯31度20分 東経122度30分 / 北緯31.333度 東経122.500度 / 31.333; 122.500の地点で陸軍船高見山丸(三井船舶、1,992トン)を撃沈し、輸送船筥崎丸(日本製鐵、3,948トン)を撃破した。翌5月30日、ソーリーはミッドウェー島に針路を向けた。6月7日、これまで不調だったソーリーの第4エンジンが復旧。6月8日、ソーリーは38日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投。その後、修理と改装を行うため真珠湾に回航され、6月13日に到着した。
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