第5、第6の哨戒 1942年9月 - 1943年1月
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「スカルピン (SS-191)」の記事における「第5、第6の哨戒 1942年9月 - 1943年1月」の解説
9月2日、スカルピンは5回目の哨戒でビスマルク諸島方面に向かった。ニューアイルランド島での哨戒任務後、スカルピンは日本船団の探索を始めた。9月28日、スカルピンはニューブリテン島ランバート岬沖で水上機母艦日進とタンカーを発見して雷撃し、日進に損傷を与えたが、駆逐艦による攻撃を受け潜航する。スカルピンは3時間の爆雷攻撃で小規模の損傷を受けた。10月7日昼ごろ、スカルピンは.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}南緯03度46分 東経151度20分 / 南緯3.767度 東経151.333度 / -3.767; 151.333のラバウル近海で沖輸送第一船団を発見し、「病院船」波上丸(大阪商船、4,731トン)に対して魚雷3本を発射。うち1本を波上丸の左舷に命中させ撃沈した。スカルピンは護衛の駆逐艦高波の反撃を回避し、同海域に留まった。1週間後の10月14日、スカルピンはラバウルとカビエン間の航路において3隻の船から成る輸送船団を発見。南緯03度15分 東経149度50分 / 南緯3.250度 東経149.833度 / -3.250; 149.833のカビエン南西約75カイリ地点で陸軍船住吉丸(日之出汽船、1,921トン)に対して魚雷4本を発射し、これを撃沈。スカルピンは戦場を離脱した。10月18日昼、スカルピンは南緯05度27分 東経156度01分 / 南緯5.450度 東経156.017度 / -5.450; 156.017付近のショートランド諸島南方で、軍艦旗を翻した艦隊か船団、特設巡洋艦に対して最後の魚雷を4本発射した。木俣滋郎『日本水雷戦史』210ページでは、この時スカルピンが攻撃したのはガダルカナル島への高速輸送作戦を終えて帰投中の第三水雷戦隊(橋本信太郎少将)と第四水雷戦隊(高間完少将)で、スカルピンは中央列の軽巡洋艦に向けて魚雷3本を発射し、魚雷のうち1本は軽巡洋艦川内をかすめて、川内の後ろを航行していた由良の左舷前部に命中したものの爆発はしなかった、とする。しかし、この日実際に由良に対して攻撃したのはチョイセル島沖にいたグランパス (USS Grampus, SS-207) であった。10月26日、スカルピンは54日間の行動を終えてブリスベンに帰投した。 11月18日、スカルピンは6回目の哨戒でニューブリテン島およびトラック諸島方面に向かった。12月11日に日本軍機による攻撃を受け、これを回避。12月17日夜から18日にかけては暗号により日本の空母を待ち伏せ追跡したが、14キロまで接近したとき2隻の駆逐艦からサーチライトの照射を浴び、次いで砲撃を受けた。スカルピンは潜航し無音で敵の爆雷攻撃およびソナーによる探索を回避した。翌12月19日夜には、駆逐艦に護衛されたタンカーに対して魚雷を発射。2つの命中音が聞こえたが撃沈は確認できなかった。1943年1月8日、スカルピンは52日間の行動を終えて真珠湾に帰投。続いてサンフランシスコに回航され、ベスレヘム・スチールで3ヵ月のオーバーホールに入った。真珠湾には5月9日に到着した。
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