輸送部隊のキスカ進出と被害
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「7月5日の海戦 (1942年)」の記事における「輸送部隊のキスカ進出と被害」の解説
連合艦隊および北方部隊は兵力増強のため、千代田艦長原田覚大佐を指揮官とする輸送部隊(母艦〈千代田〉、輸送船〈あるぜんちな丸、鹿野丸、菊川丸〉、第18駆逐隊〈不知火、霞、陽炎、霰〉)を編成した。輸送部隊は、ミッドウェー作戦中止により浮いた第二聯合特別陸戦隊・第11・第12設営隊、および各種兵器・資材・水上戦闘機6機・特殊潜航艇甲標的6基(乙坂昇一中尉以下隊員約70名)の輸送を命じられた。6月28日、第18駆逐隊(不知火、霞、霰)は水上機母艦(甲標的母艦)千代田と輸送船あるぜんちな丸(12,759総トン。後日、空母海鷹として就役)を護衛して横須賀を出発、キスカ島に向かった。 当時の東京湾ではアメリカのナーワル級潜水艦ノーチラス (USS Nautilus, SS-168) が活動しており、ノーチラスは6月25日に白露型駆逐艦山風(第24駆逐隊)を撃沈した。続いて、ノーチラスは横須賀を出発したばかりの千代田輸送隊(千代田、あるぜんちな丸、不知火、霞、霰)を発見し、千代田に雷撃を敢行したが命中しなかった。陽炎は横須賀を出発し、横須賀鎮守部所属艦艇(敷設艇浮島、駆潜艇、掃海艇など)と協同で潜水艦掃蕩を実施する。ノーチラスは爆雷攻撃を受けて損傷、ハワイに帰投した。その後、横須賀に戻った陽炎は7月3日に輸送船鹿野丸を護衛して同地を出発、キスカ島に向かう予定であった。だが積載の遅れにより輸送船を菊川丸に変更した。7月9日、陽炎は菊川丸を伴って横須賀を出発、キスカ島へ向かった。 一方、千代田艦長指揮下の輸送部隊(千代田、あるぜんちな丸、不知火、霞、霰)は7月4日夕刻にキスカ島へ到着、キスカ港外で仮泊した。7月5日早朝、千代田とあるぜんちな丸は、キスカ湾に入港した。千代田が輸送してきた二式水上戦闘機6機は東港空支隊に編入され、ただちに上空哨戒を開始した。第18駆逐隊3隻(不知火〔司令駆逐艦〕、霞、霰)は引き続きキスカ島沖で濃霧のため仮泊中、ハワード・W・ギルモア艦長が指揮するアメリカの潜水艦グロウラー (USS Growler, SS-215) の襲撃を受けた。グロウラーは先頭の駆逐艦2隻に魚雷各1本を発射、3番目の艦に対して魚雷2本を発射したという。日本時間午前2時56分以降、グロウラーが発射した魚雷が次々に命中する。魚雷1本が命中して大破した霰は主砲で反撃したが、まもなく船体が分断されて沈没した(戦死者104名)。不知火と霞も大破した。不知火には魚雷1本が機関部に命中し、自力航行・曳航も不可能になる。不知火の戦死者は3名であった。霞には魚雷1本が一番砲塔下部に命中して艦首が脱落寸前となり、艦各部にゆがみが生じて自力航行・曳航も不可能となる。戦死者は10名であった。負傷者は千代田に収容された。 また同日にはアガッツ島近海で行動中の第21駆逐隊の駆逐艦子日も、アメリカのタンバ―級潜水艦トライトン (USS Triton, SS-201) の雷撃で撃沈されている。わずか1日で駆逐艦2隻喪失、2隻大破という事態に、宇垣纏連合艦隊参謀長(戦艦大和座乗)は各方面に苦言を呈することになった。第五艦隊参謀長中澤佑大佐は、第18駆逐隊の被害について以下のように語っている。 ○第五艦隊中沢参謀長ノ話 第十八駆逐隊ガヤラレタ時ハ第十八駆逐隊ハ南方カラキテ疲レテヰタノデ「キスカ」ニツイテヤレヤレト仮泊シタ。日没ハ夕方(一八〇〇頃)ナルモ日出ハ当日〇〇五〇デアツタガ、先入主的ニヤハリ〇六〇〇頃トモ思ヘルノデ、当時第十八駆逐隊ハ一度配置ニツケテヰタカドウカ不明ナルモソレモ一因ナルベシ。仮泊中ヲ潜望鏡ヲ出シツヽ「霰」「霞」「不知火」ト順々ニ覘ねらヒウチヲシテ行ツタ由。其間一五〇〇位ノ所ヲ三十分ニ及ブ砲撃効ナシ。 — 昭和17年7月16日金曜日、高松宮宣仁親王著/大井篤ほか編『高松宮日記 第四巻』314-315ページ 当時の第18駆逐隊司令宮坂義登大佐(兵47期)は、転錨時刻を遅らせたこと、霧のため予定位置に停泊できなかったこと、アメリカ潜水艦の活動は仮泊地には及ばないと考えていたこと、北方に対する研究が不十分であったことが大被害の要因になったと回想している。
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