輸送路の断絶と食料危機
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 10:02 UTC 版)
「ダウンフォール作戦」の記事における「輸送路の断絶と食料危機」の解説
アメリカ軍内においては、多大な損害が予想される上陸作戦に代わる代替戦略として日本の海上・陸上輸送路を標的にした爆撃作戦が本格化した。1945年8月11日に新たに発せられた一連の爆撃命令にはドイツでの戦略爆撃の予備的分析が反映されており、輸送機関と石油が最も効果的な標的とされた。この新たな命令は都市(都市工業地区)よりも輸送機関、特に鉄道網の破壊を優先していた。その他の標的には航空産業、軍需品倉庫、軍需工場、石油貯蔵施設、化学工場などがあげられた。先進工業国の中で日本は唯一、国外の貨物輸送と国内運輸の両方を海上輸送に依存しており、1945年8月には壊滅的な商船損失に機雷敷設と厳重な海上封鎖による締めつけが重なり、統制のとれた国内海上輸送網が機能しなくなっていた。その結果大量の食料を余剰地域から不足地域に配送する手段としては、ごく限られた鉄道網が生命線となっていた。戦略爆撃調査団の分析によればB29と輸送機による作戦を2日間ほど行えば、関門トンネルでの本州と九州、および鉄道連絡船による本州と北海道の鉄道接続を遮断しさらに本州の鉄道を約6カ所で分断できるとされた。これにより「経済資産としての日本の鉄道網は事実上破綻し」日本人口のほぼ半数が餓死の危険に陥ると考えられた。実際に爆撃や水害、海上封鎖の影響で日本の食料事情は急速に悪化しており、日本の米生産量は1942年の1002万7474トンから1944年の878万3827トンまで減少し、1945年11月の政府の予測によれば翌年用のコメはわずか635万5000トンとされた。さらにカロリー摂取量の約10% を供給する漁獲量が急減、海運業の潰滅によって輸入食料も入らなくなり、1日当たりのカロリー摂取量も激減、1941年には約2000カロリーだったが1945年には1640カロリーに下向、飢餓とビタミン欠乏に関連する疾病の発生率が急激に上昇していた。日本陸軍は「1945年から46年の冬の間におそらく広範な飢餓が起き人口のかなりの部分が命の危険にさらされること」を明らかに理解していた。緊急国会の特別会で柴山陸軍次官は日本が戦争を継続できるのは食料事情により最大1年だと認めている。米内光政海軍大臣は「もし敵が侵攻をせずに、空軍および海軍による圧迫をジワジワとくわえてきたならば、大本営はもっと危険な局面に当面するであろう」と幕僚に語っており、航空総軍司令官の河辺大将と参謀本部の情報部長の有米精三中将は「大本営の幕僚の大多数は、米軍が一九四五年の終りまでに本土に侵攻することを、実際に待ちのぞんでいた」と語り連合軍の侵攻が遅れれば遅れるほど日本が弱体化し飢えていく現状を理解していた。
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