和辻春樹の苦悩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/05 23:01 UTC 版)
「あるぜんちな丸級貨客船」の記事における「和辻春樹の苦悩」の解説
和辻が大阪商船在籍時に設計を手掛けた船は70隻を超えるが、あるぜんちな丸級貨客船の2隻は「最も大きく、最も高価な、そして、最も苦心した船」であった。その和辻は「あるぜんちな丸」竣工後の昭和14年11月12日に開かれた造船協会の講演会で、次のように述べている。 本航路就航船なる定期速力によれば、試運転時の速力は五分の一戴貨状態に於て正常馬力発生時に二〇ノットにて十分なるも、二一ノットを要求せされし事は主機関に於て約二五〇〇馬力の差異を生じ、且つ船型に於ても甚だしく fine なる船となり、機関の重量を増して重量屯は著しく減少され、それと共に荷積も減ぜらるる等この速力に於ける一ノットは想像以上の不合理と困難とを余儀なくせられたるものと言うべく、設計上の見地より速力一ノットの低下を希望せるも遂に容るる所となりざりしなり。この一ノットの速力の相違は本船船価、収益力(earning power)、経済効率(economic efficiency)に顕著の差異を与うるものなるは、平時に於ける船としての経済的価値と本船活動力を著しく減殺するものと言うべし。長さ一〇メートルを超ゆる艙口の如きは聊か過大に失するの一例に外ならざるなり。船の設計に関する真の理解なき事項を強要し、而かも其の間相互に何等の連関なきが如きは船の内容的価値を低下せしむる事あるのみならず、往々にして危険なる結果を招くの憂なしとせざるなり。 — 和辻春樹 遠回しの表現ながら和辻は、日本海軍の要求をのんだ結果、不経済な貨客船ができあがったことを述べている。そもそも、前述の移民制限による移民数の減少と貨物取扱量の増加を考慮すれば、船客定員は300名程度で報国丸級貨客船よりもなおキャパシティーを少なくしても差し支えはなかった。そこに日本海軍からの三条件、「21ノットの速力」、「船客定員約1,000名」および「長さ10メートルのハッチ」を取り入れ、さらに貨物用スペースの削減とレイアウトの大幅な変更、一等スペースの充実がなされた結果復元性に不足が生じたため、船底に400トン相当のバラストを搭載して、さらに貨物スペースが削減されるという悪循環が生じてしまった。三条件の一つであった「21ノットの速力」にしても、空母に改装する段になって速力が不足であることが判明して、タービン機関に換装されている。 優秀船舶建造助成施設の適用を受けるということは、すなわち日本海軍の要請採用の義務化をも意味しており、事実上の軍備拡充政策でもあった。それでも助成施設の内容は魅力的であり、あるぜんちな丸級貨客船の場合は「あるぜんちな丸」の場合では契約船価930万円、追加工事費61万円、艤装品費20万円などの総計船価1013万円のうち、317万円の助成金が支給されて負担は3分の2に減少した。それでも採算が取れないとみられており、和辻もこの点から建造には反対をしていたものの、大阪商船が5割増しの運賃で採算が取れるようにつじつま合わせを行って建造を決定するという一幕もあった。先に記した和辻の講演は、あい続く無理難題が山積したがゆえのフラストレーションの、一つの帰結ともいえよう。 それでも、日本海軍からの要求に起因する不条理が公然とまかり通った事情があったとはいえ、あるぜんちな丸級貨客船は和辻以下の設計陣が「心血を注いで仕あげた名船」でもあり、船舶研究家ローレンス・ダンをして「どのように定義づければ良いか難しいが、当時では著しく進歩したデザインで日本的なタッチが滲みでている」と言わしめるほどの存在であって、大阪商船のフラッグシップであったことには間違いない。
※この「和辻春樹の苦悩」の解説は、「あるぜんちな丸級貨客船」の解説の一部です。
「和辻春樹の苦悩」を含む「あるぜんちな丸級貨客船」の記事については、「あるぜんちな丸級貨客船」の概要を参照ください。
- 和辻春樹の苦悩のページへのリンク