ソロモン諸島の戦い以降
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「長良 (軽巡洋艦)」の記事における「ソロモン諸島の戦い以降」の解説
呉に帰投後、7月14日に第十戦隊は第三艦隊に編入。8月9日から14日に呉で修理が行われ、この時7.7ミリ単装機銃2基が装備されたものと思われる。 8月16日にソロモン海域での作戦に従事するため出港した。8月24日には第二次ソロモン海戦に参加、10月26日には南太平洋海戦に参加したが、損傷なくトラック諸島へと帰還した。11月12日からの第三次ソロモン海戦には、戦艦比叡、霧島を護衛し、海戦にも参加した。13日の第一夜戦では軽巡洋艦アトランタに対して命中弾を得たが、重巡洋艦サンフランシスコの5インチ砲を被弾した。しかし損傷は軽微にとどまり、作戦を続行した。15日の第二夜戦において、ワシントンとサウスダコタの2戦艦を中心とする第64任務部隊と交戦、駆逐艦綾波が損傷させた駆逐艦プレストンにとどめを刺し、撃沈する戦果を挙げた。しかし、米新鋭戦艦2隻に対して雷撃による被害を与える事は出来なかった。18日にはトラックに帰還。11月20日、「長良」は第四水雷戦隊に編入された。 12月27日に「長良」は舞鶴に入港し、同地で修理が行われた。この時、五番砲の撤去や25ミリ連装機銃4期の装備などが行われた。「長良」は第二十四防空隊の人員兵器等を搭載して1943年1月20日に舞鶴を出港し、徳山を経て1月25日にトラックに到着。 1943年4月7日、.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯08度40分 東経147度00分 / 北緯8.667度 東経147.000度 / 8.667; 147.000のトラック西水道西北西480km地点付近で、駆逐艦夕霧の護衛を受けて呉からトラックに向かっていた特設運送船(給糧船)厚生丸(日本海洋漁業、8,282トン)が米潜タニーの雷撃を受けて沈没の危機に瀕したとの報を受け、長良はトラックを出撃。現場に到着して厚生丸の援護にあたった。そして、厚生丸を曳航して本土へ向かう。しかし、9日になって厚生丸の浸水が著しいため曳航を断念。1307、長良が見守る中、厚生丸は北緯08度53分 東経146度42分 / 北緯8.883度 東経146.700度 / 8.883; 146.700のトラック西水道の西北西530km地点付近で沈没した。 7月15日、カビエンで右舷後部に触雷。ラバウルで応急修理を行った。 7月20日、「長良」は第二水雷戦隊に編入され、旗艦となった。修理のため、8月16日に舞鶴入港。この時には二一号電探、電波探知機の装備、須式探照灯の撤去と九六式探照灯の装備、2メートル半測距儀の撤去、射出機の換装などが行われた。11月1日、第四艦隊に編入され、旗艦となった。 11月前半に長良は連合艦隊のラバウル撤退を支援し、11月12日には潜水艦によって雷撃・大破した軽巡洋艦阿賀野をトラック泊地まで曳航した。 11月21日、アメリカ軍はギルバート諸島・タラワ環礁へ攻撃を開始、タラワの戦いがはじまった。連合艦隊は第四艦隊長官を指揮官として、タラワ増援部隊を編成した。支援部隊(第四戦隊、第七戦隊、第八戦隊、第二水雷戦隊)、南洋方面航空部隊、補給部隊(第十駆逐隊、東亜丸、富士山丸)と共に、輸送部隊(指揮官伊澤少将:第十四戦隊《那珂、五十鈴》、長良、第6駆逐隊《雷、響》)、先遣隊潜水艦9隻という戦力が作戦に組み込まれた。21日、第十四戦隊はトラックを出発、22日にポナペ島に到着して陸軍部隊を収容、25日にクェゼリンに到着した。26日までに軽巡長良、第6駆逐隊(雷、響)はクェゼリンに集結、第十四戦隊(那珂)の指揮下に入る。こうしてギルバート方面への逆上陸準備は完了した。だがタラワはすでにアメリカ軍により陥落しており、逆上陸作戦は実行されなかった。タラワの陥落と、並行して勃発したギルバート諸島沖航空戦の敗北により、日本軍は制海権も制空権も失いかけていた。 長良は1943年12月5日にクェゼリン環礁に寄港中に第50.3任務群の空母艦載機の攻撃を受け、至近弾により搭載魚雷が誘爆、48名が死亡、艦長を含む112名が負傷した。 詳細は「マーシャル諸島沖航空戦」を参照 長良は同環礁に停泊していた工作艦山霜丸より応急修理を受け、トラックに退避した。病院船の氷川丸に負傷者や戦死者の遺骨を預け、西村友晴先任将校を艦長代理とした。この損傷から日本本国での修理が決まるが、先だってラバウル空襲で損傷し艦尾を切断した駆逐艦長波の曳航を命じられる。氷川丸に預けた戦死者遺骨を再び長良に持ち帰り、長波を曳航して日本本土に向かった。1944年1月24日に呉に到着して長波を引き渡し、長良は1月26日に舞鶴に入港して修理を受けた。この際に後述の「大戦中の要目」に記された改装を受けている。長良は修理中に中部太平洋方面艦隊付属に編入されたが、出渠して訓練も終了した5月に第十一水雷戦隊へ編入となった。 長良はしばらく呉に入港していたが、1944年6月15日にアメリカ軍がサイパン島に上陸したのを受け、逆上陸作戦の参加戦力として6月19日に横須賀へ移動した。だが6月21日のマリアナ沖海戦の敗北を受けて、25日に逆上陸は中止となった。急遽小笠原諸島の防衛力増強の必要に迫られた陸軍はサイパン島逆上陸用に用意していた部隊を小笠原諸島防衛に転用することを決定し、海軍も同様に準備していた艦船を小笠原への輸送にあてることとし、伊号輸送部隊を編成した。長良は伊号輸送部隊第一輸送隊(長良、駆逐艦冬月、松、第四号一等輸送艦等)に加わり6月28日に横須賀を出港、7月1日に父島二見に入港し任務を果たした。 7月14日から長良は沖縄への呂号輸送作戦に従事し、8月5日に那覇から疎開者をつれて出港して6日に鹿児島に入港、疎開者を上陸させた。 1944年(昭和19年)8月7日、長良は鹿児島を出港して佐世保へ向かう途中、熊本県の天草諸島の西においてアメリカ潜水艦クローカーに雷撃された。クローカーの後部発射管から4本の魚雷が射出され、うち1本が長良の右舷後部に命中し、長良はほどなくして沈没した。中原艦長以下348名が戦死し、237名が救助された。沈没する長良の様子はクローカーによりカラー映像として記録されていた。 佐々木ツルが建立した長良の戦没者の慰霊碑は天草市牛深の在郷軍人墓地の一角にあり、同市にはうしぶか海彩館に軍艦長良記念館がある。記念館には砲弾、鉄帽、長良の模型などが展示されている。
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