ソロモン諸島の戦い以降とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > ソロモン諸島の戦い以降の意味・解説 

ソロモン諸島の戦い以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 08:51 UTC 版)

長良 (軽巡洋艦)」の記事における「ソロモン諸島の戦い以降」の解説

呉に帰投後、7月14日第十戦隊第三艦隊編入8月9日から14日に呉で修理が行われ、この時7.7ミリ単装機銃2基が装備されたものと思われる8月16日ソロモン海域での作戦従事するため出港した8月24日には第二次ソロモン海戦参加10月26日には南太平洋海戦参加したが、損傷なくトラック諸島へと帰還した11月12日からの第三次ソロモン海戦には、戦艦比叡霧島護衛し海戦にも参加した13日第一夜戦では軽巡洋艦アトランタに対して命中弾を得たが、重巡洋艦サンフランシスコの5インチ砲を被弾した。しかし損傷軽微とどまり作戦続行した15日第二夜戦において、ワシントンサウスダコタの2戦艦中心とする第64任務部隊交戦駆逐艦綾波損傷させた駆逐艦プレストンにとどめを刺し撃沈する戦果挙げた。しかし、米新鋭戦艦2に対して雷撃による被害与える事は出来なかった。18日にはトラック帰還11月20日、「長良」は第四水雷戦隊編入された。 12月27日に「長良」は舞鶴入港し同地修理が行われた。この時、五番砲の撤去25ミリ連装機銃4期装備などが行われた。「長良」は第二十四防空隊人員兵器等を搭載して1943年1月20日舞鶴出港し徳山経て1月25日トラック到着1943年4月7日、.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯0840東経14700分 / 北緯8.667度 東経147.000度 / 8.667; 147.000のトラック西水道西北西480km地点付近で、駆逐艦夕霧護衛受けて呉からトラック向かっていた特設運送船(給糧船)厚生丸(日本海洋漁業、8,282トン)が米潜タニー雷撃受けて沈没危機瀕したとの報を受け、長良トラック出撃現場到着して厚生丸の援護あたった。そして、厚生丸を曳航して本土へ向かう。しかし、9日になって厚生丸の浸水著しいため曳航断念。1307、長良見守る中、厚生丸は北緯0853東経14642分 / 北緯8.883度 東経146.700度 / 8.883; 146.700のトラック西水道西北西530km地点付近沈没した7月15日カビエン右舷後部触雷ラバウル応急修理行った7月20日、「長良」は第二水雷戦隊編入され旗艦となった修理のため、8月16日舞鶴入港。この時には二一電探電波探知機装備、須式探照灯撤去九六式探照灯装備、2メートル測距儀撤去射出機換装などが行われた。11月1日第四艦隊編入され旗艦となった11月前半長良連合艦隊ラバウル撤退支援し11月12日には潜水艦によって雷撃大破した軽巡洋艦阿賀野トラック泊地まで曳航した。 11月21日アメリカ軍ギルバート諸島タラワ環礁攻撃開始タラワの戦いはじまった連合艦隊第四艦隊長官指揮官としてタラワ増援部隊編成した支援部隊第四戦隊第七戦隊第八戦隊第二水雷戦隊)、南洋方面航空部隊補給部隊第十駆逐隊東亜丸富士山丸と共に輸送部隊指揮官伊澤少将第十四戦隊那珂五十鈴》、長良、第6駆逐隊、響》)、先遣隊潜水艦9隻という戦力作戦組み込まれた。21日第十四戦隊トラック出発22日ポナペ島到着して陸軍部隊収容25日クェゼリン到着した26日までに軽巡長良、第6駆逐隊、響)はクェゼリン集結第十四戦隊那珂)の指揮下に入る。こうしてギルバート方面への逆上準備完了した。だがタラワはすでにアメリカ軍により陥落しており、逆上作戦実行されなかった。タラワ陥落と、並行して勃発したギルバート諸島沖航空戦敗北により、日本軍制海権制空権失いかけていた。 長良1943年12月5日クェゼリン環礁寄港中に第50.3任務群の空母艦載機攻撃を受け、至近弾により搭載魚雷誘爆48名が死亡艦長を含む112名が負傷した詳細は「マーシャル諸島沖航空戦」を参照 長良は同環礁停泊していた工作艦山霜丸より応急修理を受け、トラック退避した病院船氷川丸負傷者戦死者遺骨預け西村友晴先任将校艦長代理とした。この損傷から日本本国での修理が決まるが、先だってラバウル空襲損傷し艦尾切断した駆逐艦長波の曳航命じられる氷川丸預けた戦死者遺骨を再び長良持ち帰り長波曳航して日本本土向かった1944年1月24日に呉に到着して長波引き渡し長良1月26日舞鶴入港して修理受けたこの際後述の「大戦中の要目」に記され改装受けている。長良修理中に中部太平洋方面艦隊付属編入されたが、出渠して訓練終了した5月第十一水戦隊編入となった長良はしばらく呉に入港していたが、1944年6月15日アメリカ軍サイパン島上陸したのを受け、逆上作戦参加戦力として6月19日横須賀移動した。だが6月21日マリアナ沖海戦敗北受けて25日逆上陸は中止となった急遽小笠原諸島防衛力増強必要に迫られ陸軍サイパン島逆上陸用に用意していた部隊小笠原諸島防衛転用することを決定し海軍同様に準備していた艦船小笠原への輸送にあてることとし、伊号輸送部隊編成した長良は伊号輸送部隊第一輸送隊長良駆逐艦冬月第四一等輸送艦等)に加わり6月28日横須賀出港7月1日父島二見入港し任務果たした7月14日から長良沖縄への呂号輸送作戦従事し8月5日那覇から疎開者をつれて出港して6日鹿児島入港疎開者を上陸させた。 1944年昭和19年8月7日長良鹿児島出港して佐世保へ向かう途中熊本県天草諸島の西においてアメリカ潜水艦クローカー雷撃された。クローカー後部発射管から4本の魚雷射出され、うち1本が長良右舷後部命中し長良ほどなくして沈没した中原艦長以下348名が戦死し237名が救助された。沈没する長良様子クローカーによりカラー映像として記録されていた。 佐々木ツル建立した長良戦没者慰霊碑天草市牛深在郷軍人墓地一角にあり、同市にはうしぶか海彩館に軍艦長良記念館がある。記念館には砲弾鉄帽長良模型など展示されている。

※この「ソロモン諸島の戦い以降」の解説は、「長良 (軽巡洋艦)」の解説の一部です。
「ソロモン諸島の戦い以降」を含む「長良 (軽巡洋艦)」の記事については、「長良 (軽巡洋艦)」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ソロモン諸島の戦い以降」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ソロモン諸島の戦い以降」の関連用語

ソロモン諸島の戦い以降のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ソロモン諸島の戦い以降のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの長良 (軽巡洋艦) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS