太平洋戦争序盤から中盤まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 04:35 UTC 版)
「扶桑 (戦艦)」の記事における「太平洋戦争序盤から中盤まで」の解説
太平洋戦争緒戦では、真珠湾攻撃に向かった南雲機動部隊の後詰め・曳航艦として山本五十六連合艦隊司令長官が座乗する第一戦隊(長門、陸奥)他第一艦隊各艦と共に出撃した。北緯30度、東経160度の「K点」まで進出する予定だったが、12月11日に反転、12月13日に日本・柱島泊地に戻った。扶桑乗組員への功績評価は「功労甲」であった。 1942年(昭和17年)のミッドウェー作戦では5月29日に日本を出撃、6月4日に第一戦隊(大和、長門、陸奥)以下主隊と分離しアリューシャン諸島へ向かった。だがアメリカ軍と交戦することはなく、6月17日に日本へ戻った。それ以降の4隻(扶桑、山城、伊勢、日向)は出撃機会もなく、いわゆる『柱島艦隊』として、実弾射撃訓練に従事したり、海軍兵学校の練習艦として使用された。 このミッドウェー海戦で日本軍は主力空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)を喪失する。空母不足に陥った日本軍は、金剛型戦艦、扶桑型戦艦、伊勢型戦艦、青葉型重巡洋艦、利根型重巡洋艦を航空母艦へ改造することを検討する。工事が長引く全通飛行甲板型の空母への改造案は破棄され、航空戦艦への改造計画がまとまる。検討の結果、日向の五番砲塔爆発事故の関係から伊勢型戦艦のみを航空戦艦に改造した。 1943年(昭和18年)6月1日、扶桑艦長は古村啓蔵大佐から鶴岡信道大佐に交代(古村大佐は、6月9日附で大和型戦艦2番艦武蔵艦長)。6月8日、瀬戸内海柱島泊地に停泊していた扶桑および長門、大淀、龍田や第十一水雷戦隊等は戦艦陸奥の爆沈に遭遇した。陸奥艦長三好輝彦大佐は、扶桑艦長室にて鶴岡(扶桑)艦長(6月1日発令。6月7日扶桑に到着。三好大佐とは海軍兵学校の同期)と歓談したあと陸奥に戻り、爆発にまきこまれて戦死した。扶桑や長門以下各艦は共同で陸奥生存者の救助をおこなった。 7月には、長門と共に航空隊の演習目標艦となった。なお、同型艦の山城が練習艦として日本本土にとどまっていたのに対し、扶桑はトラック泊地に進出することになった。8月17日、連合艦隊司令長官古賀峯一大将直率の主力部隊(戦艦3隻〈大和、長門、扶桑〉、空母大鷹、巡洋艦3隻〈愛宕、高雄、能代〉、駆逐艦部隊〈涼風、海風、秋雲、夕雲、若月、天津風、初風〉)として呉を出撃し、23日トラックへ到着。以降はトラック泊地で待機した。10月下旬、山城や航空戦艦に改造されたばかりの伊勢が、扶桑用36cm主砲弾や大和型戦艦用の46cm砲弾を運搬している。姉妹艦達が輸送任務を終えて日本に戻っても扶桑はトラック泊地にとどまり、1944年(昭和19年)2月のトラック島空襲直前にリンガ泊地へ移動している。
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