太平洋戦争後の水田化とは? わかりやすく解説

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太平洋戦争後の水田化

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 13:59 UTC 版)

千波湖」の記事における「太平洋戦争後の水田化」の解説

太平洋戦争後の食糧事情悪化対し食糧増産僅かながらでも資する目的で、千波湖をほぼ全部干上がらせ水田化して稲作行っていた事が1947年から1950年の間に行われていた。 1946年緑岡村千波の者らがメンバーの「千波湖埋立実行委員会」なる組織食糧増産の為として千波湖水田化茨城県申請した。その概要田植え時期に、備前堀下流域水田田植え終わり千波湖農業用水としての必要性が完全に無くなった後、千波湖水の放水により一時的に空にして、そこに田植えをし、秋に収穫収穫後は湖沼に戻す、というものであった。これに対し下大野上大野稲荷の普通水組合から反対の声があがり、この年水田化認められなかった。翌1947年前年案から水田化する面積縮小するなどした計画が県に承認された。が、それに対し水戸市側が、観光都市目指す当市にとって千波湖水田化構想骨抜きにするもの、として反対表明した水戸市側はまた、水田化する期間を5年してしていることにも反発した結局食糧増産必要性とのせめぎ合い結果1年だけ耕作認めることで水戸市がおれ、同年6月24日から田植え始まった計画では水田化した32町歩(約0.32キロ平方メートル)から11月刈り取りで、当時水戸市民の5から6日分の食料相当する玄米1500俵から2000俵が収穫されるはずだった。だが、9月襲来したキャサリン台風により稲が水没しこの年未収穫に終わった。翌1948年前年より174名多い409名が入植し7月1日から田植え入った。ただ、この入植者増やした措置前年からの入植者の不満を招き騒動になったまた、耕作者側によって花見時期前(4月8日以前)に湖水抜かれてしまい水戸市側が憤慨する、という騒動起きていた。そしてこの年9月襲来した台風アイオン台風)により収穫皆無終わった。翌1949年水田化観光面の問題重く見た水戸市議会により拒否された。そして翌1950年水田化しての耕作本年限りとする、を条件耕作が行われた。食糧危機緩和もあり千波湖水田化この年終わった千波湖水田化しての稲作湖沼を空に出来る期間が短いため、栽培期間短くなってしまうことに加え排水悪さによる稲の冠水危険性耕作困難にする湖底の泥等悪条件下のものであった。が、耕地では無い為税金かからない等のメリットもあるが、なによりそこまでしてでも食糧確保をせねばならなかった時代であったこの頃の事を知る者は、千波湖水田化許可下りなかった時は「…住民ムシロ旗をたてて騒ぎましてね。許可なんかいらない、堤を切ってをぬけ…」との騒動起こした、と当時切迫した世相語っている。 太平洋戦争後の食料難については「山口良忠#背景」を参照山口良忠闇米拒否して餓死した裁判官

※この「太平洋戦争後の水田化」の解説は、「千波湖」の解説の一部です。
「太平洋戦争後の水田化」を含む「千波湖」の記事については、「千波湖」の概要を参照ください。

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