太平洋戦争後の水田化
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太平洋戦争後の食糧事情の悪化に対し、食糧増産に僅かながらでも資する目的で、千波湖をほぼ全部干上がらせ水田化して稲作を行っていた事が1947年から1950年の間に行われていた。 1946年に緑岡村千波の者らがメンバーの「千波湖埋立実行委員会」なる組織が食糧増産の為として千波湖の水田化を茨城県に申請した。その概要は田植えの時期に、備前堀下流域の水田の田植えが終わり、千波湖の農業用水としての必要性が完全に無くなった後、千波湖を水の放水により一時的に空にして、そこに田植えをし、秋に収穫、収穫後は水を湖沼に戻す、というものであった。これに対し下大野、上大野、稲荷の普通水利組合から反対の声があがり、この年は水田化は認められなかった。翌1947年、前年案から水田化する面積を縮小するなどした計画が県に承認された。が、それに対し水戸市側が、観光都市を目指す当市にとって千波湖の水田化は構想を骨抜きにするもの、として反対を表明した。水戸市側はまた、水田化する期間を5年としてしていることにも反発した。結局、食糧増産の必要性とのせめぎ合いの結果、1年だけ耕作を認めることで水戸市がおれ、同年6月24日から田植えが始まった。計画では水田化した32町歩(約0.32キロ平方メートル)から11月の刈り取りで、当時の水戸市民の5から6日分の食料に相当する玄米1500俵から2000俵が収穫されるはずだった。だが、9月に襲来したキャサリン台風により稲が水没しこの年は未収穫に終わった。翌1948年は前年より174名多い409名が入植し7月1日から田植えに入った。ただ、この入植者を増やした措置は前年からの入植者の不満を招き騒動になった。また、耕作者側によって花見の時期前(4月8日以前)に湖水が抜かれてしまい水戸市側が憤慨する、という騒動も起きていた。そしてこの年も9月に襲来した台風(アイオン台風)により収穫皆無に終わった。翌1949年は水田化は観光面の問題を重く見た水戸市議会により拒否された。そして翌1950年は水田化しての耕作は本年限りとする、を条件に耕作が行われた。食糧危機の緩和もあり千波湖の水田化はこの年で終わった。 千波湖を水田化しての稲作は湖沼を空に出来る期間が短いため、栽培期間が短くなってしまうことに加え、排水の悪さによる稲の冠水の危険性、耕作を困難にする湖底の泥等悪条件下のものであった。が、耕地では無い為税金がかからない等のメリットもあるが、なにより、そこまでしてでも食糧確保をせねばならなかった時代であった。この頃の事を知る者は、千波湖水田化の許可が下りなかった時は「…住民はムシロ旗をたてて騒ぎましてね。許可なんかいらない、堤を切って水をぬけ…」との騒動を起こした、と当時の切迫した世相を語っている。 太平洋戦争後の食料難については「山口良忠#背景」を参照 ※山口良忠は闇米を拒否して餓死した裁判官。
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