改修後時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 13:59 UTC 版)
用水源としての価値が薄れてからは、遊歩道として整備された湖外周の散策や湖面でのボート遊びを楽しむなど、千波湖は市民の憩い、レジャーの場としての性格が強くなっていった。中でも貸ボート屋は乱立し、問題となる程であった。1930年には貸ボート組合も設立されている。 詳細は「#レジャー業・イベント業」を参照 1935年(昭和10年)には千波沼漁業組合(1909年設置)によるコイの養殖が始まった。が、組合から養殖を委託された養鯉業者の行動や、養殖に伴う悪臭が市民の反感を招き、結果、千波湖に有料釣場が設置されることになった。 詳細は「#水産業」を参照 太平洋戦争後の一時期には、食料難解決のため、千波湖の水が抜かれ水田となったこともあった。 詳細は「#太平洋戦争後の水田化」を参照 戦後復興が進む中、千波湖岸周縁を都市公園として整備する動きが1950年代から始まる。この結果、湖外周はジョギングコースとして整備され市民ランナー等が集う場に、湖南岸は芝地公園として整備され、市民の憩いの場、及び1993年開催の「第10回全国都市緑化フェア - グリーンフェア'93いばらき」を契機に各種イベントの会場として活用されるようになる。 詳細は「#レジャー・スポーツ」および「#イベント」を参照 1973年には「千波湖周辺地域大規模公園構想」という、千波湖及び千波公園を中心に周辺の偕楽園等の公園・緑地を一体の大規模公園としての整備を目指す構想が出され、以後これに沿った公園整備が水戸市内でなされる。1999年にはこれらの公園群を「偕楽園公園」として総称して、これはニューヨークのセントラルパークに次ぐ世界第2位の面積を持つ都市公園である、との広報が出されている。 詳細は「水戸市#千波湖周辺地域大規模公園」を参照 1960年代から始まった水戸市下市地区の再開発事業により、千波湖改修事業で生まれた水田地区が市街地化されるなど千波湖周辺の都市化が進んだ。水戸市ではこの下市以外の地区でも都市化が進み、特に旧市街周辺地区や農村地区に住宅が多く建てられるようになった。が、下水道の整備等、生活排水の処理が不十分であったため、汚染した水が市内の河川・湖沼に流れ込み市の水環境を悪化させた。特に千波湖は天然河川の直接流入が無い、ほぼ閉鎖された水空間であったため、汚染物質の蓄積が進み1970年代になると水質悪化が目立ってきた。よって行政は1973年10月に千波湖浄化対策調査班を発足させて以後、様々な千波湖の水質浄化対策を実施している。中でも那珂川からの導水は実施された1988年後、COD値が大幅に減少する効果が出ている。それでも、千波湖の浄化は未だ充分なものでは無い。千波湖の水質目標としてCOD(化学的酸素要求量)が1リットルあたり8ミリグラム以下、T-p(総リン)が1リットルあたり0.1ミリグラム以下にすることが挙げられているが2017年度時点で達成出来ていない。 水質データ及び個々の水質浄化対策については「#水質」を参照 1988年4月8日付建設省告示第1125号で河川法上、千波湖は桜川の一部であることが明確にされた。 詳細は「#河川法」を参照 2011年、東日本大震災が起きる。以後、水戸市の観光客は落ち込んだままとなる。そこで偕楽園の観梅に依存してきた水戸の観光業の見直しが検討され、千波湖を含む偕楽園・歴史館エリアの観光地としての魅力向上事業が2019年から実施されている。 詳細は「#観光業」および「#レジャー業·イベント業」を参照
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