太平洋戦争後直後: アドニス・同好創刊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 07:34 UTC 版)
「日本における同性愛」の記事における「太平洋戦争後直後: アドニス・同好創刊」の解説
「ゲイ雑誌#歴史」および「ゲイ・タウン#歴史」も参照 太平洋戦争後は権威の喪失と街娼やストリップの流行、言論の自由による性描写の解禁などがおこり、同性愛もその流れに乗って発達した。三島由紀夫に代表される同性愛を告白したり、肯定的に論ずる作家も現れた。『奇譚クラブ』、『風俗草紙』、『風俗科学』などの雑誌でも同性愛が記事になっており、奇譚クラブ創刊年の1947年12月号には男娼、男妾の記事が既にあった(太平洋戦争後直後の同性愛を取り上げた雑誌記事一覧参照)。またこの頃、太平洋戦争後の同性愛の黎明期を象徴する同性愛サークルで、三島らが関わった『アドニス会』が発足しており、1952年9月には日本初の会員制ゲイ雑誌『アドニス』が発行された。別冊小説集『アポロ』には、その三島が榊山保名義で『愛の処刑』を寄稿した。中井英夫も碧川潭名義で『虚無への供物』をアドニスに寄稿し、塚本邦雄は菱川紳名義で寄稿していた。この他にも『羅信』、『MAN』(No.6が1955年刊)、『楽園』(創刊年不明)などゲイのミニコミがいくつも誕生し、1959年に大阪で創刊された『同好』(編集長:毛利晴一)は最盛期には会員数が千人を超えた。 太平洋戦争前に引き続き性を売る同性愛者もいた。東京では太平洋戦争前に続き上野公園、大阪では天王寺公園に近い阿倍野区旭町に男娼が集まり「男娼の森」と呼ばれ、上野公園に街娼を求めてやってくる客のうち1割は男性目当てだった。上野公園は太平洋戦争後直後は女装男娼が集まったが、1950年代頃は女装しない男娼が圧倒的多数を占めるようになっていた(「ゲイ・タウン#上野」も参照)。日比谷公園も有名なゲイの出会いの場になっていて、情交を求めるゲイで夜毎賑わい、GHQ本部(第一生命館)に近かったこともあり中には米軍人もいた(「ゲイ・タウン#歴史」も参照)。同時に同性愛者をカモにして恐喝するものも現れた。また1950年代初頭までに「砂川屋」、「竹の屋」(1953年)などの旅館もできていた。 1950年代には同性愛者のコミュニティも発足する。ゲイバーは太平洋戦争前の昭和初年には登場し、太平洋戦争後も直ぐにできていたが、新宿では1950年代に、要町(当時新宿二丁目、現新宿3丁目)、千鳥街(新宿御苑近く)、花園街(現新宿ゴールデン街)界隈のそれぞれに一般の飲み屋などに混ざり、ゲイバー(特に中性的美少年バーや女装バー)が比較的多く集まる飲み屋街ができていた。 1950年代の男性同性愛者の調査によれば、回答者は、人権意識をもって海外の同性愛禁止法に反発していたこと、世間から特異な目で見られたくないと思っていたこと、太平洋戦争前とは違って罪悪感を抱いたり卑下したりしなくなったことなどがわかる。
※この「太平洋戦争後直後: アドニス・同好創刊」の解説は、「日本における同性愛」の解説の一部です。
「太平洋戦争後直後: アドニス・同好創刊」を含む「日本における同性愛」の記事については、「日本における同性愛」の概要を参照ください。
- 太平洋戦争後直後: アドニス・同好創刊のページへのリンク