太平洋戦争後の復興
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/18 08:53 UTC 版)
戦時体制に入ると、乗客誘致に国鉄や私鉄が精を出せる状況でなくなったこともあり、技術革新は停滞することになる。また空襲などによって、電車も多くが被災して運行不能になった。 太平洋戦争後直後も、部品不足などによる整備不良などが原因で多くの電車の使用が不可能となり、客車代用として用い蒸気機関車に牽引される形で運行を行ったこともあった。国鉄では63系のような戦時設計の簡易構造車を大量増備して増加する乗客に対応したが、この63系は運輸省の方針で被災した一部の大手私鉄へも割り当てられることになり、中小私鉄では大手私鉄からそれによって不要となった小型車を譲ってもらうことで輸送力をそれぞれ回復させようとしていた。 その後、混乱は次第に収まりを見せるようになり、1947年の近畿日本鉄道における名阪特急を始めとして、他に東武鉄道や小田急電鉄などでは特別料金を取る電車列車も運行されるようになった。 また経済状況も一変し、石炭の品質は低下し数量確保さえ困難な時代もあり、これに反し電気事業の進歩は著しく発電力は太平洋戦争前以上に進み、20世紀初頭のヨーロッパであった「鉄道は電力消費量変動が激しく電力荷重として好ましくない」という問題も、鉄道も夜間でも運転されるものが相当増えたことで逆にベースロード荷重源となり、国鉄内部のみならず参画院方面からも鉄道電化が要望されることとなり、十河信二が国鉄総裁の時、3000㎞の順次電化計画のため電化委員会が設けられ、戦争の危険も去ったことで積極的に全国幹線の電化を推し進める事になった日本国有鉄道(国鉄)で、80系(湘南電車)という中距離用電車が開発された。同車は1950年には東京駅-伊東駅間を運行する準急列車「あまぎ」に投入され、さらには浜松駅・名古屋駅へと次第に運転区間は300kmを超えるまで延長され、そこで客車列車を凌ぐ性能を発揮したことから、長距離区間においても電車における運用が組め、さらにそれが日本において優れていることを証明し、これ以後の日本における列車の動力方式を、前述したように動力集中方式から動力分散方式へ移行させていく契機ともなった。 私鉄の場合も地方私鉄(主に中小私鉄)では太平洋戦争前は電化してない所も多かったが、戦中の燃料統制と太平洋戦争後の石炭価格高騰で1950年代初頭までは燃料の入手に困難をきたしたため、解決策として電化に踏み切ったところも多く、車両も大手私鉄から車両を譲り受けたり、自社が保有している気動車を電車に改造したりする例もあった。この時期の特殊な電車の例として、1950年に宮崎交通で運行開始した蓄電池駆動方式の電車(チハ101・102・103)があげられる。蓄電池の電力で非電化区間を自力走行できるもので、約20kmの区間を1往復するごとに充電していた。蓄電池式の電気機関車は炭鉱や鉱山・遊覧鉄道などでの採用例が多くあったが、蓄電池式の電車は当時唯一のものであった。1962年に廃線になるまで使用された。
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