太平洋戦争序盤
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「熊野 (重巡洋艦)」の記事における「太平洋戦争序盤」の解説
第七戦隊は開戦後、マレー上陸作戦に参加する。蘭印作戦中に生起した1942年(昭和17年)3月1日のバタビア沖海戦には、第2小隊のみ参加する。本海戦直前、連合軍艦隊との決戦をのぞむ第五水雷戦隊司令官原顕三郎少将と、敵艦隊と距離をとろうとする栗田少将は一日近く電文の応酬をくりひろげた。みかねた連合艦隊司令部が『バタビヤ方面ノ敵情ニ鑑ミ第七戦隊司令官当該方面ノ諸部隊ヲ統一指揮スルヲ適当ト認ム』と発令し、仲裁に入る一幕もあったほどである。栗田少将の行動について小島秀雄(海軍少将)は『あとで第七戦隊の先任参謀に、(バタビア沖海戦時)いったいどこにおったんだと聞いた。先任参謀いわく、軍令部に、第七戦隊を大事にしてくださいと言われたというんだ。大事にしてくださいと言われて、後におるやつがあるものか』と批評している。 4月1日より、第七戦隊はインド洋作戦の一環として通商破壊作戦に従事。第七戦隊は栗田少将直率の北方部隊(熊野、鈴谷、駆逐艦白雲)、三隈艦長指揮の南方部隊(三隈、最上、駆逐艦天霧)に分割されてベンガル湾で活動し、小沢治三郎中将直率の中央隊(鳥海、由良、龍驤、夕霧、朝霧)と共に商船多数を撃沈した。4月22日、第七戦隊は第19駆逐隊(綾波、敷波、磯波、浦波)と共に内地へ帰投した。5月1日、栗田少将(第七戦隊司令官)は海軍中将に昇進。日本帰還後、第七戦隊はミッドウェー作戦に向けて準備を行う。第七戦隊(熊野、鈴谷、三隈、最上)は第8駆逐隊(荒潮、朝潮)及び日栄丸を指揮下に入れ、護衛隊支援を任ぜられた。5月22日から6月22日にかけてミッドウェー作戦に参加する。 詳細は「三隈 (重巡洋艦)」を参照 6月5日、日本海軍は主力空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)を喪失した。残存するアメリカ軍機動部隊とミッドウェー島基地航空隊の挟撃を避けるため、山本五十六連合艦隊司令長官および攻略部隊指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官は、第七戦隊にミッドウェー島飛行場の艦砲射撃を命じる。近藤長官は第七戦隊がミッドウェー島に一番近い位置にいると思っていたが、第七戦隊は長官の予想より80浬後方にいた。第七戦隊は35ノットで9時間も突進したため、第8駆逐隊(朝潮、荒潮)は落伍してしまう。だがミッドウェー島飛行場砲撃2時間前(同島より西方90浬地点)に作戦中止命令がだされ、第七戦隊は反転した。 この作戦過程で、浮上中のアメリカの潜水艦タンバーを回避しようとした単縦陣先頭艦(旗艦熊野)の航海信号が、後続艦(鈴谷、三隈、最上)に誤って伝達された。結果、七戦隊3番艦(三隈)と4番艦(最上)が衝突。栗田司令官は損傷の大きい最上に三隈、荒潮、朝潮の護衛をつけ、熊野と鈴谷を率いて主力部隊との合流を急いだものの、そのまま所在不明となった。6月6日から6月7日にかけて、最上以下4隻はアメリカ軍の航空攻撃を受け三隈が沈没した。この間、栗田及び第1小隊(熊野、鈴谷)はミッドウェー基地空襲圏外にでるため西方に向けて航行しており(連合艦隊司令部の命令も無視)、6月7日になって近藤信竹攻略部隊指揮官より三隈・最上救援作戦に呼応するよう命じられて、やっと自隊の位置を報告した。戦後、栗田は「そんな情況だったのには気付かなかった」、田中艦長は「(栗田は主力艦隊と)合同すれば、第2小隊(三隈、最上)救援を命ぜられる事を懸念したからだ」と答えている。 6月8日午前4時頃、攻略部隊は損傷した最上と朝潮、荒潮と合流した。行方不明の熊野、鈴谷が『まったく思いがけなく反対側の西方』から出現し、攻略部隊に合同した。本海戦における栗田中将の行動や指揮に対し、日本海軍は特に問題視しなかった。一方、鈴谷艦長木村昌福大佐は栗田(熊野座乗)の行動について、珍しく批判的なメモを残した。また当時の鈴谷運用長前田一郎少佐は、「鈴谷は熊野と分離して単艦で三隈・最上救援にむかった」と回想しているが、確実な証拠はない。同日、第18駆逐隊(不知火、霞、陽炎、霰)は、第七戦隊の指揮下に入る。6月14日から17日までトラック泊地所在。6月23日、熊野、鈴谷と第18駆逐隊は呉に到着した。大破した最上は修理と改修のため8月25日に第七戦隊から外れた。
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