戦争犯罪の追及
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 00:53 UTC 版)
「ダグラス・マッカーサー」の記事における「戦争犯罪の追及」の解説
まずマッカーサーが着手したのは日本軍の武装解除であったが、軍事力のほとんどが壊滅していたドイツ国防軍と異なり、日本軍は内外に154個師団700万名の兵力が残存していた。難航が予想されたが、陸海軍省などの既存組織を利用することにより平穏無事に武装解除は進み、わずか2カ月で内地の257万名の武装解除と復員が完了した。 次に優先されたのは戦争犯罪人の逮捕で、終戦前からアメリカ陸軍防諜部隊(略称CIC)がリストを作成、さらに国務省の要求する人物も加え、9月11日には第一次A級戦犯38名の逮捕に踏み切った。しかし東條英機が自殺未遂、小泉親彦と橋田邦彦2名が自殺した。最終的に逮捕したA級戦犯は126名となったが、戦犯逮捕を指揮したCIC部長ソープは、遡及法でA級戦犯を裁くことに疑問を感じ、マッカーサーに「戦犯を亡命させてはどうか?」と提案したことがあったが、マッカーサーは「そうするためには自分は力不足だ、連合軍の連中は血に飢えている」と答えたという。 A級戦犯に同情的だったマッカーサーも、フィリピン戦に関する戦争犯罪訴追にはフィリピン国民に「戦争犯罪人は必ず罰する」と約束しただけに熱心であった。マッカーサー軍をルソン山中に終戦まで足止めし「軍事史上最大の引き伸ばし作戦」を指揮した山下奉文大将と、太平洋戦争序盤にマッカーサーに屈辱を与えた本間雅晴中将の2人の将軍については、戦争終結前から訴追のための準備を行っていた。 山下は1945年9月3日にフィリピンのバギオにて降伏調印式が終わるや否や、そのまま逮捕され投獄された。山下は「一度山を下りたら、敵は二度と釈放はすまい」と覚悟はしていたが、逮捕の罪状であるマニラ大虐殺などの日本軍の残虐行為については把握していなかった。しかしマッカーサーが命じ、西太平洋合衆国陸軍司令官ウィリアム・D・ステイヤー中将が開廷したマニラ軍事法廷は、それまでに判例もなかった、部下がおこなった行為はすべて指揮官の責任に帰するという「指揮官責任論」で死刑判決を下した。死刑判決を下した5人の軍事法廷の裁判官は、マッカーサーやステイヤーの息のかかった法曹経験が全くない職業軍人であり、典型的なカンガルー法廷(似非裁判:法律を無視して行われる私的裁判)であった。参謀長の武藤章中将が、独房とは言え犯罪者のように軍司令官の山下を扱うことに激高して「一国の軍司令官を監獄に入れるとは何事だ」と激しく抗議したが受け入れられることはなかった。 また、マニラについてはその犠牲者の多くが、日本軍の残虐行為ではなくアメリカ軍の砲爆撃の犠牲者であったという指摘もあり、山下に全責任を負わせ、アメリカ軍のおこなったマニラ破壊を日本軍に転嫁するためとの見方もある。山下は拘束されたときから既に自分の運命を達観しており、独房のなかで扇子に墨絵を書いたり、サインを求めてくる多くのアメリカ軍将兵や士官の求めに応じて紙幣にサインしたりして過ごしていたが、開戦の日にあわせるかのように、1945年12月8日にマニラの軍事法廷で死刑判決を受けた。マッカーサーは山下の絞首刑に際して、より屈辱を味わわせるように「軍服、勲章など軍務に関するものを全て剥ぎ取れ」と命令し、山下は囚人服のままマンゴーの木で絞首刑を執行された。 本間についても同様で、本人が十分に把握していなかった、いわゆるバターン死の行進の責任者とされた。マッカーサーが死の行進の責任者を罰することを「聖なる義務」と意気込んでいたことと、マッカーサーを唯一破った軍人であり、なによりその首を欲していたため、マッカーサーにとっては一石二鳥の裁判となった。本間の妻・富士子は、本間の弁護士の1人フランク・コーダ大尉の要請により、本間の人間性の証言のため法廷に立つこととなった。軍事法廷が開廷されているマニラへ出発前に、朝日新聞の取材に対し富士子は「私は決して主人の命乞いに行くという気持ちは毛頭ございません。本間がどういう人間であるか、飾り気のない真実の本間を私の力で全世界の人に多く知って頂きたいのです」と答えていたが、結局は山下裁判と同様にカンガルー法廷により、判決は死刑であった。判決後富士子は、弁護士の一人ファーネス大尉と連れだってマッカーサーに会った。マッカーサーの回想では、富士子は本間の命乞いに来たということにされているが、富士子によると「夫は敵将の前で妻が命乞いをするような事を最も嫌うので命乞いなんかしていない。後世のために裁判記録のコピーがほしいと申し出たが、マッカーサーからは女のくせに口を出すなみたいな事を言われ拒否された」とのことであった。このやり取りのおかげかは不明だが、マッカーサーの命令により本間は山下のように不名誉な処刑ではなく、軍服を着用の上で銃殺刑に処せられた。死刑執行後に富士子は「裁判は正に復讐的なものでした。名目は捕虜虐殺というものでしたが、マッカーサー元帥の輝かしい戦績に負け戦というたった一つの汚点を付けた本間に対する復讐裁判だったのです」と感想を述べている 後にこの裁判は、アメリカ国内でも異論が出され「法と憲法の伝統に照らして、裁判と言えるものではない」「法的手続きをとったリンチ」などとも言われた。 1949年に山下の弁護人の内の1人であったA・フランク・リール大尉が山下裁判の真実をアメリカ国民に問うために『山下裁判』という本を出版した。日本でも翻訳出版の動きがあったがGHQが許可せず、日本で出版されたのはGHQの占領が終わった1952年であった。
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