操車場建設の歴史的経緯とは? わかりやすく解説

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操車場建設の歴史的経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/26 15:13 UTC 版)

日本の貨車操車場」の記事における「操車場建設の歴史的経緯」の解説

1872年明治5年)に開業した日本の鉄道では、創業し間もない頃から貨物輸送行っており、やがて鉄道網日本全国拡大するにつれ鉄道輸送旅客貨物いずれにしても陸上輸送主流となった貨物輸送増大したのは、特に1906年鉄道国有化以降である。貨物増加対応するため、明治末期から大正時代にかけて、それまで駅構内付属施設仕分線)にて行われていた貨車入換および貨物列車組成作業専門行い、かつ広大な作業場備えた操車場建設が行われるようになった。これが操車場建設第一期である。稲沢操車場吹田操車場田端操車場品川操車場がこの時期建設されている。品川操車場は後に客車操車場転向し貨車入換作業品鶴線上に新設され新鶴見操車場移転したその後2度わたって集中的に日本全国操車場建設されていく。操車場建設第二期は、日中戦争勃発に伴い軍需中心とした貨物輸送増加した1930 - 40年代である。香椎操車場新潟操車場などが新たに建設された。そして第三期太平洋戦争後の復興期で、やはり経済の復興あわせて増大する貨物需要対応するために建設された。富山操車場などが該当する1970年代まではこうしたヤード継走式の貨物輸送中心であった戦後高度経済成長の中で、鉄道貨物輸送1970年昭和45年)に輸送量ピーク迎える。 なお、ヤードといっても「ハンプヤード」、「平面ヤード」、「重力ヤード」の3種類があるが、日本場合大半が「平面ヤード」で、一般的に知られていたハンプヤード方式をとったのは、郡山大宮田端武蔵野新鶴見・塩浜静岡高崎富山稲沢吹田門司鳥栖といった少数の(貨車入換量が特に多い)操車場だけであり、重力ヤードいたって一個もなかった。重力ヤード操車能力こそハンプヤード劣らぬものの、ヤード全体的に坂に設置されている必要があって建設適した場所がなかったことがその理由として挙げられる全世界的に見て重力ヤード圧倒的に少ない。

※この「操車場建設の歴史的経緯」の解説は、「日本の貨車操車場」の解説の一部です。
「操車場建設の歴史的経緯」を含む「日本の貨車操車場」の記事については、「日本の貨車操車場」の概要を参照ください。

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