栄光と悲劇
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1958年も強力なラインナップを保ち、フェラーリを圧倒する快進撃を見せる。モスが第3戦オランダGP、第9戦ポルトガルGP、最終戦モロッコGPで勝ち、ブルックスが第5戦ベルギーGP、第8戦ドイツGP、第10戦イタリアGPで勝つなど、シリーズ11戦中6勝を挙げる強さで、この年からコンストラクターにも与えられるようになったチャンピオンの栄光を手にした。しかし、勝利が分散した結果、ドライバーズチャンピオンはフェラーリのマイク・ホーソーンに奪われた。この年4勝したモスは最速のドライバーでありながら、1勝のホーソーンに有効ポイント上僅か1点差で及ばなかった。 そして、最終戦モロッコGPでは、チームに愛されたルイス=エヴァンズが炎上事故で重傷を負い、後日死亡するという悲劇も起こった。トニー・ヴァンダーベルはフェラーリへの復讐を果たし、医師から体調面で忠告されていたこともあり、このレースをもって本格参戦を中止した。1959年、1960年にも各1レース1台ずつ出走したが、すでに戦闘力は失われ、やがてヴァンウォールの名はレース界から消滅した。 チーム発足・参戦から僅か4年で栄光をつかみ、その頂点で実質的に幕を閉じたヴァンウォールの歴史はF1史上でも稀有なものであった。それはまた、クーパー、BRM、ロータスといった英国勢の黄金時代につながる先駆けでもあった。
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栄光と悲劇
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太平洋戦争前期に活躍したアメリカ海軍のSBD ドーントレス急降下爆撃機は、同時代の九九艦爆を性能面で上回っており、搭載爆弾は545kg(1200lbs)、最高速度は九九艦爆よりも時速30kmほど優速で、防弾装甲を施してあった機体の生存率は高かった。 日本海軍は九九艦爆開発中であった昭和13年には既に「十三試艦上爆撃機」の試作を海軍航空技術廠で始めており、それは後に艦上爆撃機「彗星」として採用された。しかし愛知航空機での本格的な量産と前線配備は日本の敗色が濃厚となった戦争末期で、彗星が採用した液冷エンジンはその機構の複雑さなどから生産の遅延と前線での整備の効率を下げた。また日本海軍では正規空母が減少しており、小型空母では長い滑走距離を必要とする彗星を運用する事は難しかった。日本海軍は性能的には旧式となった九九艦爆に代わる彗星の必要数を用意できず、零戦21型に250kg爆弾を装備させた戦闘爆撃機を配備していった。 それでも九九艦爆の運用は続けられたが、米軍においては新鋭戦闘機F6Fの大量投入や近接信管(VT信管)の開発がなされ、反攻体制が整いだしたソロモン諸島の戦いからは、低速で防弾装甲も貧弱な九九艦爆は多大な消耗を重ね、パイロットの犠牲者は膨大な数に及んだ。エンジン出力と速度を改良した二二型も十分な性能とは言えず、その生存性の低さから「九九式棺箱(かんばこ)」「窮窮式艦爆」というあだ名もつけられている。 昭和19年10月にフィリピン戦が始まると、10月27日に実施された第二神風特別攻撃隊を皮切りに、多くの九九艦爆が特攻に使用された。また沖縄戦の特攻でも艦爆専修の練習航空隊から選抜された隊で数十機単位の九九艦爆が使われている。 太平洋戦争(大東亜戦争)の初期における九九艦爆の活躍は、航空決戦思想の有用性を証明するものであった。ハワイ海戦(真珠湾攻撃)ではアメリカ海軍の太平洋艦隊をほぼ一方的に撃破、日本の南方進出においても東南アジアの各地にあった連合軍の拠点を空爆することで日本軍の迅速な進撃を実現した。史上初の空母同士の海戦においても投入され、持ち前の急降下爆撃能力を発揮してアメリカ海軍の空母部隊に大きな打撃を与えている。 しかし戦局が進むにつれて当初の高性能も旧式化していき、馬力向上などの改良が加えられるも損害は目に見えて増大。それでも完全に旧式化していた戦争末期まで運用が続けられた。最終的には艦載機としてではなく陸上基地から特別攻撃隊として飛び立っていった本機の軌跡は、栄光と悲劇に満ちたものであった。
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